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かりそめ(78)

 僕が生まれ育ったあの家の、あの庭の桜じゃなくて、この家の庭の桜。教授と僕の家の庭の。  夏から見守ってきた花芽の、息をひそめて春を待つ桜の、まだ一度も見たことのない花の盛りを。  春の太陽の優しい光の粒が花びらにふりそそぎ、柔らかい風が枝を揺らす。  ――ああ……綺麗だな。  まるで去年も一昨年も、もっとずっと前から何度も見たことがあるように想像が膨らむ。  鉛筆の動きがどんどん早くなる。画用紙に芯が擦れる音が大きくなる。  もっと全部を描きたくなってくる。  桜だけじゃなく、四季を通して周りの花木も変化する。  ――少しずつ、少しずつ。  それは、毎日この二階のアトリエの窓からや、広縁の窓からも、庭に下りて手入れをする時にも目にしているはずなのに、いつも気が付いたら次の季節に移っていて……。  そしてその風景の中に、教授と僕がいる。  この家で暮らし始めてまだ一年経ってないけれど、もうこの家の中にも、庭にも、不思議に僕は溶け込んでいて。そして、いつも隣には教授がいてくれる。  もうずっと昔からここに住んでいるみたいに馴染んでいるのは、きっと、教授が一緒にいてくれるから。  ――ささやかで、あたたかい、何気ない毎日を、二人で少しずつ少しずつ積み重ねてきたから……。  僕が描きたいのは過去の思い出じゃなく、現在(いま)の想い。愛する人との日々。  画用紙に鉛筆の芯が擦れる音が、不意に二重に聞こえてきた。  僕の描くタイミングとは違う。速度も違う。音の大きさも違う。  そして視線を感じた。  僕が座っている窓際の机からは、少し離れた位置。  顔を上げると、こちらを見ている彼の黒い瞳と目が合った。その目元が優しく細められ、唇が綺麗な弧を描く。  教授は、もう僕から目を逸らさない。    さっきまで、キャンバスに向かっていたはずなのに、今は身体ごとこちらを向いて、その手には絵筆じゃなくて鉛筆が握られていて、胸の辺りに抱えたスケッチブックに、何かを描いている。 「何を、描いてるんですか?」 「……伊織だよ」  返ってきた応えに、僕は思わず口元を緩ませた。  まだ教授と学生の関係だった頃、気が付けばどこからか誰かの視線を感じて顔を上げれば、そこにはいつも教授がいた。  実習室でも、図書館でも、学食でも……。 「……伊織が、今すごくいい顔をしていたからね」

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