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かりそめ(77)

「取り壊されてしまう前に、一度見に行ってみるかい?」  タキさんからの手紙の内容を話した僕に、教授はそう言ってくれるけれど……。 「……いえ……。あそこには、もう誰も住んでないし……」 「そうか……」  教授は、ひと言だけそう返して、キャンバスの前へと戻っていき、「でもその桜も、きっともうすぐ咲くんだろうね」と、続けて、また絵筆を手にした。 「……そうですね」  絵筆がキャンバスの上を滑る音が、微かに聞こえ始める。  僕はもう一度、薄い緑色の便箋に視線を落とした。  でも、――――帰っても……仕方ないような気がするから。  それに、僕は全部憶えてる。  目を閉じると見えてくる。懐かしい風景。  駅前の横断歩道を渡り、狭い路地を入った数メートル先の所にある、斜面に沿って続く長くて急な階段。  ずっと先にある女子大の学生が、その階段を上りながら『心臓破りの階段』と嘆いているのをよく耳にしたけれど、僕はあの階段が好きだった。  高台に位置する階段の中腹辺りから見下ろす街並み。  小さな川の傍の桜並木の遊歩道。  ずっと向こうに微かに見える海の青。  階段を上り切ると、石垣の上に建つ家が見えてくる。  高い塀の向こうから見える桜の木。僕が小学校に入学した時の記念樹。  ――今は記憶の中だけでしか見ることが出来なくても……。  僕は、便箋を封筒の中に戻して抽斗に片付けて、スケッチブックに手を伸ばした。  机の上に広げた白い紙に、芯を長く露出させて削った鉛筆を薄く柔らかく滑らせていく。  はっきりと憶えている。  全部、これからもずっと憶えてる。  幹の形、枝の長さ、そして花の色。  なのに……鉛筆はすぐに止まってしまう。  今、僕が描きたいのは、この風景じゃないような気がして。  描きたいものを描きたいままに。そう思うと、手はまた自然に動き始める。  去年、僕がこの家で暮らし始めた初夏の頃につけた花芽は、秋から冬へと葉が散っても、越冬し、春を待っていて……。  その枝のつぼみはまだ硬い。開花するところは、一度も見たことがないのに。  まだ眠っているように見えるつぼみは、もうすぐ先端を薄い黄色に染め、緑に変わり、そして柔らかく膨らんで、綻ぶように花を咲かせる。  脳裏にはっきりと浮かぶ、美しく咲き誇るその姿を、僕は白い画用紙に映していく。  

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