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第1話

戀ひ心 長く綴りし 文よりも   ただひとことを――    週末の夜の街は人で賑わっている。チェーン店の居酒屋は混み合い、カラオケやクラブの前も喧騒が絶えない。  そんな賑やかな街の奥まった路地に、人目につきにくい店がある。看板も出さず、古めかしいモザイクガラスをはめた片開き戸。静かに酒が楽しめる『隠れ家』として口コミで広がり、通の間で人気の店だ。  カウンターの止まり木に、スーツ姿の二人が並んで座っている。耳をすまさないと聞き取りにくいほど、小さな音量のイージーリスニングがBGMとして流れる。  羽目をはずすような酔客もいない、そんな『隠れ家』が柏木のお気に入りで、部下の黒田を時々ここに誘ってくれる。  フランス産、イタリア産、カリフォルニア産、スペイン産…とワインごとにおすすめ料理がありどれも絶品なのだが、特に好物のない柏木は、味というよりこの店の雰囲気を好んでいる。  今夜もマスターおすすめの料理を肴に、二人でワインを飲む。グラスのステム(脚)を持たず、ボウル部分を持つ正式なマナーでワインを嗜む、黒田は柏木のそんなところも好きだ。 「…リチャード・クレーダーマンか…懐かしいな」  眼鏡のブリッジを指で押し上げ、目尻にシワを作り、会社ではめったに見せない無邪気な笑顔を浮かべ、柏木はワイングラスに口をつけた。 「…? 何のことですか、柏木部長?」  牡蠣のアヒージョを食べながら、黒田が柏木の横顔に尋ねる。 「このBGMだよ。うちの両親が、リチャード・クレーダーマンが好きでね。実家にはカセットテープが何本もあって――」  柏木よりも二十歳も年下の黒田は、そのピアニストの名も初耳で、カセットテープも見たことはない。  同じ部署にいる柏木とは時々、食事をする。普段は仏頂面で仕事に厳しい柏木が、酒が入ると口調が柔らかくなり、たまに昭和時代の――黒田が知らない時代の話をする。  部長の意外な一面や、誰も知らないようなプライベートの話を聞けるのは嬉しい。だが、聞いたところで黒田にはわからない。二十五歳と四十五歳の間の壁は、思ったよりも厚い。 「音楽がお好きなんですね、部長」 「私はイージーリスニングが好きなんだけどね。…別れた妻がロックが好きで、家でけたたましい音楽をかけていて、あれはいただけなかった」  そう言って、柏木は眉間にシワを寄せた。柏木は離婚して十年ほどになるらしい。子供はいない。黒田が入社して今まで、柏木に恋人がいるとは聞いたことがない。  黒田は、パンにアンチョビが乗ったピンチョスの串をつかんで口に放りこむと、勢いをつけるかのようにグラスのワインを飲み干して、体ごと柏木に向ける。 「部長、お付き合いされている人は、今はいないんですよね?」 「ああ。離婚してからこの方、誰とも付き合っていない」  柏木は整った顔立ちで、髪はオールバックで髭も無く清潔感があり、長身で上等な仕立てのスーツがよく似合う。部長職ということもあり、収入が多くいい車にも乗っている。この『隠れ家』のようないい店も知っている。四十五歳とはいえ、女性が放っておかないだろう。 「でも部長って、女性にモテそうですよね。女の子の間でも、柏木部長は仕事に関しては厳しいけど、カッコ良くてセンスもいいって言われてるし」  それは黒田も同意見だった。さらに、黒田には柏木に対して、恋愛感情もある。  眼鏡の奥の瞳が、煙たそうに細められた。 「…恋愛はもう、封じてしまった」  社内の誰とも噂は立たないが、それは黒田に対しても同じこと。あからさまな拒絶だが、黒田は諦めない。酔いが回ってなんとなく、のフリで黒田は聞いてみた。

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