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第4話
しばらく考えを巡らせた後、柏木は苦しそうに言った。
「振り回される身にもなってみろ…」
黒田の口元は笑みを絶やさない。しかし、目元は悲しげだった。
「なぜ、振り回されたのですか? それは僕のことを、少なくとも部下として以上に好意を持ってくださっていた、という意味ですか?」
「お前とは…良い関係を保っていければいいと思っていた…恋愛関係は壊れる…だが、上司と部下の関係は壊れない」
柏木は黒田の腕から手を離すと、うつむき加減で言った。
二人の間にあった壁は、はたして心地よくもたれる事のできるものだったのか。それとも、国境のように相容れない二人を隔てるものだったのか。
どちらにせよ、柏木にとってはそこから先には進めない、崩せない壁だった。
「…それが、応えてくれなかった理由なのですか」
柏木はこぶしを握った。出てしまいそうになる言葉を、握りつぶそうとするかのように。
だが、柏木には止めることができなかった。
「お前の気持ちに応えてみろ! 恋愛感情は押し殺したところで、いずれ顔に出てしまい、いつか周囲にバレてしまう! そうなったら、私たちは――」
会社にいられなくなる、そう言いたかったようだ。だから柏木は気持ちを殺していた。恋愛に臆病だったのは、そのせいもある。
「それはつまり…僕のことは好きだけど、周囲にバレるのが嫌だ、ということですね」
「それに――」
黒田の問いには答えずに、柏木は言葉を続けた。
「私と君は、何歳の差がある? 二十だぞ! そんなの、うまくやっていけるはずがない!」
柏木が黒田の気持ちに答えられなかった理由は、まだある。それは年齢差だ。今はまだよくても十年後、黒田が男盛りの三十五歳になったとき、柏木は五十五歳。黒田が柏木と同じ年齢になったときは、柏木は六十五歳、定年だ。
黒田は、ふっと小さな笑い声を漏らした。
「ナンセンスですね。そんなことは承知ですよ。あなたの年齢なんて関係ない。僕は純粋に、あなたのことが好きだったんです」
過去形にされたと知ると、柏木は机にある書類やファイルを手に取り、黒田の顔も見ずに言った。
「もう、済んだことだ…。お前の気持ちが変わった以上、こんな話をしても時間の無駄だ」
ドアノブに手をかけた柏木の後ろに立ち、黒田は素早く鍵を閉めた。
「やっと部長が…本音で話してくれた」
「何をしてい…!」
床にバサバサと書類の束とファイルが落ちた。黒田が柏木を後ろから抱きしめている。
「離れろ! もし、誰か来たら――」
「今日はこの部屋、もう誰も使いませんよ」
うなじに唇が触れるほど顔を近づけた黒田は、熱い吐息とともに語りかける。
「柏木部長…僕の本当の気持ちは…あなたのこと、“好き”じゃないんです」
「なら、離せっ」
柏木のもがく力は弱い。完全な拒否ではないことを、黒田は知っている。
「僕の気持ちは――」
黒田の右手が柏木のスーツの胸元から下りて、太腿のあたりを撫でる。人差し指でゆっくりと太腿に文字を書く。
『あ い し て る』
「わかりました?」
柏木は答えない。思いもしなかったことに、戸惑っている。その戸惑いは、たった今想いを打ち明けられた肌を震わせる。
「わかるまで何度も何度も書きますよ。何年かたって、どんなラブレターをもらったか忘れた、なんて言わせないように」
「わ、わかった、黒田」
柏木はくすぐったさと恥ずかしさが交わり、混乱して、思わず太腿をたどる黒田の手に自分の手を重ねた。
「僕の気持ちは単純な“好き”じゃないんです。“愛してる”だったんですよ。もう、あなたしか見えないんです。でも、大丈夫。周囲にバレるようなことはしませんよ。部長との関係が大事だから」
黒田が強く抱きしめると、布のこすれる音がする。それに重なり、壁の時計が秒針を刻む音。そんな静寂の中、柏木の唇が微かに動いた。“ずるいな”と。
広樹さん、と下の名で呼ばれる。熱を含む少しかすれた声に柏木が振り向くと、眼鏡を取られた。
「広樹さん、今度はあなたの肌に…直に書いてもいいですか」
奪われたのは眼鏡だけでなく、唇までも――
戀ひ心 長く綴りし 文よりも
ただひとことを 腕 の君に
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