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第9話 真葛ヶ原

 目の前の闇の深淵には一切の音がなかった。魔虫すらそこから放たれてやっと、禍々(まがまが)しい羽音を立てる事が出来るのだ。ただそこに存在しているのは全てを破滅へと導く真なる闇。魂のブラックホールと呼んでも良いだろう。  惺はこれを覗き込んで息を呑んだ。本能的な恐怖に全身が震える。けれどもここで逃げ出すわけにはいかない。恐怖を少しでもやわらげようとして、目を閉じて踏み出そうとした瞬間、すぐ真上から轟音が響いて大地を揺るがした。  ゆっくりと目を開くと闇の深淵に巨大な剣が刺さっていた。 《愚かな事をしてはならぬ》  振り返ると青竜王がいた。それに返事をしようと口を開いた瞬間、1匹の魔虫が飛び込んだ。 「がはッ!」  魔虫がどこか体内を突き破ったらしい。惺は血を吐いて倒れた。  蒼さを取り戻した空が倒れた惺の瞳が映した。あれ程満ちていた禍々しい羽音も今は聞こえなかった。飛び込んだのは最後の1匹であったらしい。  京は救われたのだ。  惺の頬を一筋、涙が零れ落ちた。そして瞳が輝きを失い、ゆっくりと目蓋が閉じられた。 「惺!!」  現身に戻った昴を炎駒が運んで来た。彼を降ろすと翔も現身に戻った。 「惺!!目を開けよ!何ゆえに私を残して…許さぬと申した筈だ!?」  だが華奢(きゃしゃ)な身体は未だに、温もりを残してはいたが既に生命の鼓動を失っていた。 「青竜王さま!どうか…どうか、彼を、六位の君をお救いください!」  その叫びに応えるように、青竜王は一人の若者の姿へと変化した。瑠璃色の鎧をまとった姿を、昴も翔も夢の中で視た記憶があった。  彼は昴の側へ歩み寄った。 「大哥(あにうえ)…」 「その者は既に生命を終えた。天の(ことわり)を曲げる事は出来ぬ」 「そんな……」  翔がガックリと膝をついた。 「元より無理な数の式を操っていた。自らの生命で全てを収束させる覚悟だったようだ」  青竜王は思った。種子に戻り魂としてのそれまでの転生の記憶を、彼は全て失った筈なのだ。なのにまた彼は大切な人々を守る為にその生命を投げ出した。  青竜王には手を伸ばして(むくろ)に触れ、残った惺の思念に耳を傾けた。  これが自分に出来る唯一の方法だと、こんな形でしか昴の愛情にお返しが出来ない。  思念はそう言って消えた。それは最果ての星で白竜王を庇って消えた魂と同じ想いだった。  今回は魂までは傷付いてはいない。次の転生は可能だ。だが今此処でそれを告げたとして、何の意味があるだろうか。愛する者をまた守れなかったと、慟哭(どうこく)する昴に何の慰めになるであろうか。  この悲劇はカルマ。自らの生命で誰かを守る。それしか選択出来ないカルマ。そして白竜王も何とかそれを阻止しようとする。互いのカルマが結局、悲劇を呼んでしまう。  だから白竜王の転生を最初は止めたのだ。  カルマは魂の歪み。安易に修正は出来ない。同じ苦しみをまた味わうだけなのだ。いつどんな場所へ転生しても、惺は狙われ続けるだろう。彼の魂を贄として闇が求めるゆえに。彼自身の魂がもっと成長して、自らの力で闇を拒絶する力を持たぬ限りは。  それがカルマであり宿命。如何に神に名を連ねても、青竜王にも白竜王にも麒麟王にも、それはどうする事も出来ないものであった。  愛する者を残して逝くカルマ。  愛する者に残されてしまうカルマ。  ただ見詰めるしかないカルマ。  その歪みは大きいければ大きいほど、人は嘆き悲しみ苦悩する。その魂がたとえ神界に属する者であっても転生して、この地上に肉の身を持てば地上の理に束縛され抗う事は難しくなる。  それでも人はこの闇と光が共にある世界で、懸命に命を輝かせて生きる存在なのだ。 「弟よ、天に帰るか?」  青竜王の言葉に昴は首を振った。 「惺を置いては帰れません」  ただの骸となったものを、昴はしっかりと抱き締めていた。潔斎の白衣が朱に染まっても、彼はまるで気にしていない。昴は白竜王としての粗方の記憶は取り戻していた。そして守り切れなかった事実を嘆いていた。  彼の魂は赤子も同然で、未だ弱々しい光しか持ってはいなかった。それはわかっていた筈なのに。  京を救いたい。  そんな願いなどに耳を貸すのではなかった。後悔ばかりが胸を満たす。今度こそ…その決意であったのに。また守られてしまった。  嘆きの声は闇の口へも響いていた。  すると深々と突き刺さっている巨大な剣が唸り始め、音と振動が頭の中に手を突っ込まれて、かき混ぜられるような苦痛を呼ぶ。  青竜王は険しい表情になり、右手を前に差し出した。  するとどうであろう。巨大な剣は人が手に出来るくらいの大きさになった。もっとも変化したのは、見た目の大きさだけである。もしそれを普通の人間が持とうとしても、余りの重さにビクともしないであろう。剣本来の重さはそのままなのだ。  剣の遮りから解放された闇から、漆黒のものが音もなく噴き出した。それが昴たちの上に、ふわふわユラユラと舞い落ちて来る。  闇色の羽根だった。昴は惺の骸を抱いて後ろに下がり、青竜王が前に進み出た。闇に剣の切っ先を向けて、っと見据えた。  (おびただ)しい黒い羽根が噴き出すその中心から、羽根よりもなお漆黒の影が出現した。 「久しいの我が友よ」  雷鳴のような声が響いた。 「何ゆえに姿を現した。そなたは闇の深淵の主。闇の守護者であろう」 「汝の弟の嘆きを聞いたのでな。  また、死なせたのか」  その言葉に顔を上げた昴は、闇から出現した存在の姿に言葉を失った。  (いにしえ)に惺の魂を《愛でし子》と呼んで大層可愛がっていた神。玄武王その人であった。  だがどうだろう。透き通る白き肌は鈍色の鱗に覆われ、月光のように淡い色の巻き毛は瀝青(アスファルト)に濡れ固まって染まっていた。天界一の美貌と呼ばれ、明けの明星、暁の君と呼ばれた姿は失われていた。 「玄武王…さま?何というお姿に…」  翔もやっと彼の正体に絶句した。 「友よ、まだ私の問いに答えてはいないぞ?何ゆえにその醜悪な姿を現した」 「我は汝の弟の願いを叶えに参った」 「何を引き換えに?魔性は代価なしに取引には応じないであろう」 「何を言うのか。等価交換は世の常。我らに限った事ではない」 「何が等価交換だ。そなたら闇が要求するのは、等価と呼ぶには余りにも代価が大きい。そのような取引に私が応じると思うのか」  天界の軍勢の総指揮たる青竜王、またの呼び名を大天使ミカエル。  魔界の主たる玄武王、またの呼び名を堕天使ルシファー。  巨大な力の睨み合いに、雷雲が頭上で渦を巻き始めた。稲光が周囲を照らし、間髪入れずに雷鳴が轟く。辺りを満たす静電気に、昴たちは肌が感電してビリビリとするのを感じた。 「そうだな、代価にはこの騒動の元凶になった者、その愚かで穢れた魂をいただく。呪を行った者の魂は既に受け取ったのでな」 「元凶になった者……」 昴が思わず呟いた。 「東宮の生母、弘徽殿の御息所」  昴たちが犯人と考えていた左大臣の娘。彼女が元凶だというのか。自らが産んだ子は東宮に立ちやがては高御座に昇る。これ以上、何の栄華を望むというのか。  同じ今上の皇子であっても生母の身分が低い昴は、余程の変事でもなければ得る事のない立場だった。 「兄上は…東宮はご存知なのか…?」  同じ後宮で育ちながら、東宮である異母兄とはほとんど会った事がなかった。 「知らぬ。故にあの者の生命は奪わぬ」 「そのような世迷い言を私が、認めると思っているのか?」  青竜王の言葉を受けて玄武王は、血の色に染まった瞳で見つめ返した。 「汝は天帝に裏切られてもまだ、定められし理に生きるか。汝らしいと言えば、らしいが。  その者を蘇らせて愚か者の魂を我が得たとして、世界の因果律に与える影響は微々たるもの。  それくらい目を瞑れ、生真面目な堅物め」  この二人のやり取りに昴と翔は苦笑した。光と闇に分かたれて互いに触れ合う事が出来なくなっても、二人は遥か遠き時代からの親友だった。 「彼を生き返せば少なくとも、この地の因果律は歪める」 「ならばこの地から去らせれば良い」  玄武王には昴たちの現身での身分や立場などまるで眼中になかった。 「人間はそれでは生きては行けぬ」 「それでは汝が弟に選ばせよう。その者を生き返せば汝らはこの地には住めぬ。この地の因果律が歪み、大いなる混乱を呼ぶ。  もっとも人々の中で別なる因果律が歪み始めている。間もなくこの地は争いになる」  人間の心はどんなにしても闇を呼び込み因果律を歪める。故に戦や疫病が絶えない。 「青竜王、それはこの地の帝の継承争いを因とする。汝の弟も麒麟王も災厄から逃れられはせぬ」  玄武王には人々が呼び込み続いている、闇の流れがはっきりと見えていた。 「汝らがただ三人で暮らしたいならば、ここから去ればよい。鄙地(ひなち)(田舎)ならば、誰も汝らを知らぬ」  昴は迷った。これが魔の誘惑ならば、受け入れれば取り返しのつかない事態になる。 「心配するな。我は汝らの魂に闇をもたらす気はない。我はただ…かつて救えなかった魂に(あがな)いをしたいだけだ」  その言葉が真実であるのを証明するように、玄武王の瞳から血の涙が零れ落ちた。 「大哥…お許しください。私は如何様な罰でも受けまする。ですがまだこれの想いに十分応えてはいません。  これの愛情に報いてやりたい」  やり直したい。生まれ変わってではなく、今この現身の生きる時代で。 「そなたとその者のカルマは、これで修正出来るかも知れぬ。  だが弟よ、新たなるカルマが生じるかもしれぬぞ?今度は麒麟王をも巻き込んでな」  その言葉に昴は翔を振り返った。翔は迷いなど微塵もない顔でしっかりと頷いた。彼にはずっと友の苦悩を見つめる事しか出来なかった。だからカルマを共に背負うならば背負いたい。同じように苦悩し、光を求めて歩く人生を生きたい。そう思った。 「すまぬ…翔。  玄武王、彼を…惺を生き返してくれ」 「良かろう。青竜王、その魂をその者に戻せ。肉体と再結する」  青竜王は渋々顔で手の中の魂を昴に手渡した。それを惺の胸へ押し込んで、地面の上に骸を横たえた。  漆黒の羽根が骸に降り注ぎ、覆い隠してしまう。すると玄武王は静かに目蓋を閉じた。羽根から漆黒の輝きが溢れ出した。それはやがて天を貫いて消えた。  漆黒の羽根も姿を消し、玄武王も闇の深淵へと帰った。  昴は惺に駆け寄り抱き起こした。すると指先がピクリと動いた。 「惺?惺、目を開けよ!」  声に応えるかのように、唇が僅かに開いて小さな吐息が漏れた。 それが合図であったかのように、蒼褪めた頬に赤みがさし、胸が呼吸に上下し始めた。次いで痙攣しながら、大きく仰け反った。口から黒く染まった血が流れ出て、その中に先程飛び込んだ魔虫が混ざっていた。魔虫は体外に吐き出された。そして音もなく黒い血の中に溶けた。 「まだ闇の毒が抜けぬようだな」  青竜王はそう言って惺の胸に手を置いた。眩い光が溢れた。先程、玄武王の羽根が放った漆黒の光と、余りにも対照的で清らかな輝きだった。その光に追われるように、惺の口から煙のように闇が抜け出てた。 「意識が戻るには、一両日はかかる」  青竜王は立ち上がると周囲を見回した。 「時間がない。そなたたちはこの地から立ち去らなければならぬ」  青竜王が空を見上げると、その姿は忽ち竜身へと変化した。 「ここから東に真葛(まくず)が生い茂る原がある。人里から離れてはいるが、行き来するのは可能な距離だ。そなたたちの馬も運んでやろう」 「ありがとうございます、大哥」  昴の身体は惺を抱き締めたまま宙に浮かび上がった。翔も同じように浮かぶ。 「そなたたちはここで死んだ事になろう」 「はい」  青竜王の掌に乗って、彼らは小さくなる京の街を見つめた。 「そなたたちは今生ではもう、変化する事は叶わね。  人としての天寿を全うせよ」  青竜王の声が厳かに響いた。  京の人々が恐る恐る、注連垣の近くを覗きに来た時には、焼け焦げて誰のものともわからぬ骸が無惨に幾つか転がっていた。  そしてそれっきり、昴たち三人の姿を見た者はいなかった。  遠い真葛ヶ原に小さな館が、いつの間にか出現した。三人の若者と世話をする老夫婦の五人がひっそりと暮らしていた。  時折、身なりの良い男が土産物を持って訪れる以外、誰も真葛ヶ原へ行く者はなかった。 《第一部 完》

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