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第8話 暁闇
そして――――――――――
次の日の朝は来なかった。京の空は暗闇に包まれたまま、何刻になっても明るくならなかった。東の空は血のように紅く染まり人々を怯えさせた。
2日経っても3日経っても、空は一向に明るくならなかった。そして、人々の不安につけ込むように一つの噂が巷に流れ始めた。
『式部卿宮が娶った同性の妻が変事を呼び寄せている』
人の口から口へと伝わり、噂は真実として形になって行く。
翔の耳に入った時には、惺は災厄を振り撒く悪鬼の如き存在にされていた。翔は昴に躊躇 いながらこの噂を話した。
噂は既に宮中に及び帝すら戸惑いをみせていた。陰陽頭は謹慎を命じられ、二人の異母兄は陰陽寮から追われた。昴たちは北山の別荘から、二条の屋敷には戻れなくなった。
魔の包囲網はジワジワと彼ら三人を圧し始めた。
夜毎に影無く出現する鬼に京の人々は怯え切っていた。惺が鬼に変じるとさえ噂する者まで出て来た。
「昴さま…どうか、どうか、私をお見捨てくださりませ。元より魔性を呼ぶ身なれば、これ以上ご迷惑はおかけ出来ません」
出て行く。そうすれば昴と翔は禁裏へ帰れる。
「何を言う!」
顔色を変えた昴に惺は涙を浮かべた瞳で答えた。
「昴さまの妻にしていただき、私は幸せでございました。もう十分でございます」
この人とずっと暮らしていたかった。翔も一緒に暮らした日々は、穏やかで素晴らしかった。もっともっと勉学に励みたかった。だが結局は夢だった。
二人から離れれば、一溜まりもないだろう。魔虫に喰い殺されるのはわかっている。この身が滅びれば災厄を呼ぶ事もないだろう。
京から出来る限り離れよう。自分が動けば災厄はついて来る筈だ。尊き御身ながら対面をお許しくださった帝。美しく優しい御息所。
全てが夢……
「行かせぬ!これはお前の所為 ではない!」
「たとえそうでありましょうとも、一度たった噂は消えはいたしません。このままではお二方にも累は及びます。
昴さま…東の君さま…お別れでございます」
伏して別れを口にした。出来る限り早く、京を離れなければならない。
「痩せ馬を一頭、御餞別 にくださりませ」
惺はゆっくりと顔を上げて、最初で最後のおねだりをした。
「ならば私も参る」
「昴!?」
「昴さま!?」
驚きの声をあげた二人に昴は静かに告げた。
「もとより皇子としての身なれども東宮ではない。私一人がいなくても禁裏は困りはしないだろう」
生母の身分は高くない。高御座とも縁のない身である。何を惜しむ事があると言うのか。
「御息所さまが御嘆きになられます!」
何としても思いとどまらせなければ。尊き親王の昴を巻き添えにはしたくない。
「では、私の嘆きはどうすればよいのだ、惺?やっと巡り会えたそなたとの縁を、こんなに儚いもので終わらせよと申すか?そして私に残りの人生を如何に生きよと?」
「そうだな。俺たちは三人で一つじゃないか。京を去るならば一緒に、東国へでも参ろうではないか」
翔の言葉にも顔にも、迷いは一切見られなかった。
「東の君さま…」
「翔で良い」
惺を贄 にすれば、怪異はおさまるかもしれない。だが必ずという保証はない。惺だけが目的でこの怪異が起こっているのかどうか、本当のところは誰にもわかってはいないのだ。わからないものに贄を出しても、意味がないのではないか。まして惺に何の罪があると言うのだろうか?
無実な者の生命を差し出す。それはそれ以外に道がどうしても、みつからない時だけの方法ではないのか。古き昔ならばいざ知らず、陰陽や加持祈祷 の力を出し惜しみしているだけではないのか。弱者に責任を押し付けて安楽を、望む者たちの怠惰だとは誰も思わぬのか。
昴も翔も手のひらを返したような内裏の在り方に、最早憤りしか感じなかったのだ。
「民草に罪はございません。あれらは浮き草と同じ。水の流るるまま、風の吹くままに生きておりまする。せめて怪異をおさめなければ」
その民草が自分を追い詰めているというのに、惺は怪異の直接的被害に合っている彼らを憂う。その純粋さが痛々しいまでに、惺という存在を際立たせていた。
昴も翔もその健気さに、涙を流して袖を濡らした。この気持ちの欠片でも、内裏の公達らが理解してくれたならば…と。願っても我が身の保身しから知らぬ彼らには、届かぬものとわかり過ぎるくらわかってはいたが。
怪異を鎮めても惺への嫌疑は消えはしないであろう。内裏とはそういう場所なのだ。
褥は二条の屋敷より粗末ではあるが、いつもより惺は昴を身近に感じていた。
皇子の身分など必要ない。そう言ってくれたの、申し訳ない事と思いながらも、湧き上がる喜びもひとしおだった。自分の腕の中から惺が消えてなくなるのを恐れるように、その夜の昴の愛撫は執拗で情熱的だった。
「ンぁ…昴さま…お許しを…」
「私を捨てるな、惺」
同じ言葉を何度も耳に囁かれた。惺が一人きりだったように昴も孤独だった。翔がいなかったら昴は、自分の性癖に押し潰されて、既に世を捨てて出家していたかもしれない。
翔は昴に常に寄り添うように、共に生きてくれたただ一人の友だった。彼がいたから惺に出会えたのだ。そう思うと翔にすまないと思う。自分たちの為に全てを犠牲にしてしまう彼に。だがそんな事を言ったら翔は笑い飛ばすだろう。
「昴さま…昴さま…」
縋り付くこの愛しき者を、どのようにして守れば良いのか。
いや、その前に怪異を鎮めなければならない。それから惺を連れて東国へ旅立とう。無用な腹の探り合いにも今上帝の皇子の立場を、利用したがる輩ももううんざりだった。
自由になりたかった。自分がいなくても、内裏は困りはしない。
昴の決意は固かった。
それからは慌ただしかった。北山から一条の陰陽頭の屋敷へ、ひっきりなしに使いが駆け抜けた。
やがて火事で焼けた街中の一部が、全てを取り払われた空き地になった。怪異を収束させると頭が願い出て、この場所を空き地にしたのだ。誰かが勝手に入り込まないように、検非違使が交代で見張っている。
そして空き地の周辺から人々を遠ざけて行った。人々は不満げにしていたが空き地全体を囲むように、注連垣 が張られたのを見て慌てて逃げ出し始めた。
中央に壇が築かれに至って、かなり広範囲に渡って人っ子一人いなくなった。
準備は整った。あとは星の巡りを待つだけだった。
昴、翔、惺は精進潔斎 をして時を待っていた。
怪異を呼び込んで一掃する。言葉にすれば容易い。自分たちの生命と引き換えになる可能性が濃かった。
鬼と魔虫の双方が、人々を恐怖のどん底へと導いていた。京を逃げ出した者もいる。
三人はただ自らが出来得る事をすると、互いに誓いあっていた。無論、星を読むには京より外へ出なければならない。陰陽頭は陰陽寮から人を出して、星を読ませて吉日を選んだ。
読み間違えば、三人の生命はない。そして…吉日は5日後と出た。
当日、頭は注連垣の中の壇で三人を待っていた。すると白装束に身を包んだ彼らが馬で姿を現した。
「式部卿宮さま、お待ち申し上げておりました」
深々と頭を下げた父に、惺は迷いのない声で告げた。
「父上 、どうか寮の皆さまや検非違使の皆さまを連れて内裏へお戻りください。あちらへの被害はない筈ですが、どうか主上をお守りくださいませ」
帝の守護を言われては、頭は異を唱える事は出来なかった。微力ながらも三人に、加勢するつもりだったのだ。しかし彼らは自分たち以外の何人をも、巻き添えにしたくはなかった。惺を狙って魔が動くならば、それを討つのは自分たちの役目だと昴も翔も確信していた。
「どうか…皆さま、ご無事で」
息子を犠牲にしなければならない。それが生まれた時からの惺の宿命であっても、父としての胸中は穏やかではなかった。
三人は彼らが去って行くのを確認して互いに頷き合った。
「さて、如何致す?」
「何も。必要ならば秘められたお力が自然に発動いたしまする」
惺はそう答えると一人で壇に上がった。頭上には真っ黒なものが太陽光を遮っていた。
惺は空を仰いだ。昴と出逢って初めて蒼く澄んだ空を見た。穏やかに日々を過ごす幸せも知った。だから人々にその幸せを返そう。
惺は大きく息を吸って、ゆっくりと澄んだ声で祝詞を唱え始めた。
「高天原 に神留坐 す 皇親 神漏岐神漏美 の命 を以 て 八百万 の神等 を 神集 に集賜 ひ 神議 に議賜 て 我皇孫尊 は 豊葦原 の水穂 の国を 安国 と平 けく所知食 と事依 し 奉 き
如此依 し奉 し国中 に荒振神達 をば 神問 しに問賜 ひ 神掃 に掃賜 ひて 語問 し磐根樹立草 の垣葉 をも語止 て 天 の磐座放 ち 天の八重雲 を伊豆千別 に千別 て 天降依 し奉 き
如此依 し奉 し四方 の国中 と 大倭日高見 の国を安国 と定奉 て 下津磐根 に宮柱太敷立 て 高天原 に千木高知 て 皇孫尊 の美頭 の御舎仕奉 て 天 の御蔭日 の御蔭 と隠坐 て 安国と平けく所知食 む国中 に成出 でむ 天の益人等 が 過犯 けむ雑々 の罪事 は
天津罪 とは 畦放 溝埋 樋放 頻蒔 串刺 生剥 逆剥 屎戸 許々太久 の罪を天津罪 と宣別 て
国津罪 とは 生膚断死膚断 白人胡久美 己 が母犯 せる罪 己が子犯 せる罪 母と子と犯罪 子と母と犯罪 畜犯罪 昆虫 の災 高津神 の災 高津鳥 の災 畜仆 し蟲物為罪 許々太久 の罪出 でむ
如此出 ば 天津宮事以 て 天津金木 を本打切末打断 て 千座 の置座 に置足 はして 天津菅曾 を本苅断末苅切 て 八針 に取辟 て 天津祝詞 の太祝詞事 を宣 れ 如此宣 ば
天津神 は天 の磐門 を押開 きて 天の八重雲 を伊豆 の千別 に千別て所聞食 む 国津神 は高山 の末短山 の末 に登坐 して 高山の伊穂理短山 の伊穂理 を撥別 て所聞食 む
如此所聞食 ては 罪と云 罪は不在 と 科戸 の風 の天 の八重雲 を吹放 つ事 の如 く 朝 の御霧 夕 の御霧を朝風夕風 の吹掃事 の如 く 大津辺 に居 る大船 を舳解放 艫解放 て大海原 に押放事 の如く 彼方 の繁木 が本 を焼鎌 の敏鎌以 て打掃事 の如く 遺 る罪は不在 と 祓賜 ひ清賜事 を 高山之末短山之末 より 佐久那太理 に落瀧 つ速川 の瀬に坐 す瀬織津比咩 と云神大海原 に持出 なむ 如此持出往 ば 荒塩 の塩の八百道 の八塩道 の塩の八百会 に坐 す速開都比咩 と云神 持可可呑 てむ 如此可可呑 てば 気吹戸 に坐 す気吹戸主 と云神 根国底国 に気吹放 てむ
如此気吹放 てば 根国底国 に坐 す速佐須良比咩 と云神 持佐須良比失 てむ
如此失 てば 今日 より始 て罪 と云 罪 は不在 と 祓賜 ひ清賜事 天津神国津神 八百万神等共 に所聞食 と申 す」
これは『大祓詞』と呼ばれる祝詞である。水無月 と過越し に唱えられる最強の穢れ祓いである。
惺は心から願っていた。祝詞の中にある『罪と云罪は不在』という一文が、この大地の上にし、この蒼空の下に生きとし生ける全ての生命にあらん事を。魂の奥底までの悪人はいないと信じたかった。
神々に祈念するは願いと共に、森羅万象 万物 に今ここに在る事を感謝する気持ちだった。惺の嘘偽りのない素直な気持ちだった。
生まれて来た事を嘆いた日々があった。けれど今はこの世に生を受けた事を、心の底から感謝している。その想いを全て解き放った祈りだった。
唱え終えた惺は頬を濡らして俯いた。もうこれで思い残す事はないと。それからゆっくりと顔を上げ振り返った。昴と翔に微笑んでから再び空を見上げた。
空を覆うものの正体はわかっていた。惺は大きく息を吸って叫んだ。
「我は此処ぞ!」と。
黒い空が動いた。空を覆っていたのは無数の魔虫だった。その余りの数故に人々の目にも見えるようになっていたのだ。
ふと見ると男が一人、覚束 ない足取りで、彼らの方へと歩み寄って来た。
翔がとっさに立ち去れと言いかけて息を呑んだ。
魔虫の一部が羽音を立てて、男を一斉に襲撃したのだ。男の姿は魔虫に包まれて見えなくなった。だが悲鳴一つ聞こえずもがく様子もない。やがて魔虫は男を呑み込んで一体の鬼が姿を現した。
それはいつぞやに翔を襲った鬼と姿が余りにも酷似していたのだ。
「いつぞやの呪詛はこの者の仕業か」
昴が言うと翔が続けた。
「自らの呪 に我が身を滅ぼしたらしいな」
「誠に因果応報 よ」
呪詛を行った本人がこのような姿であるなら、依頼した者も今頃は無事てはない筈だ。彼らは小手先の呪詛 を使用したつもりだったろう。だが三人を標的にしてしまったが故に、深い闇の中へと引きずり込まれてしまったのだ。
「哀れよな、自業自得とはいえ」
溜息混じりに翔が言う姿をもしも彼ら以外が見ていたら、その呑気な様子に驚いたであろう。
「急々如律令 !
南方の守護神朱雀 !」
叫びと共に惺の手から飛び出した護符は全部で5枚あった。式を呼ぶのは安易な行為ではない。呼び出したものが制御するには、それなりの精神力を要する。通常では5体もの式を駆使するのは不可能だ。
むろん如何に人並み外れた能力を持つとはいっても惺も平気ではない。自らの生命を投げ出して、京の空を覆い尽くす魔虫を滅ぼすつもりだった。
これらは自分の存在が呼び寄せた。ならばその始末も生命と引き換えにしても、滅ぼすのが自分の宿命 だと。
朱雀の甲高い鳴き声が辺りに響き渡り、鬼に向かって一斉に襲い掛かった。火を噴くもの。火から逃れ出たものを、その鋭い嘴 で啄 み喰 らう。
魔虫と男が変化した鬼は絶叫して身悶えた。次々と吐き出される炎は魔虫を焼き続ける。だが魔虫は空から次々と舞い降り、鬼に補給される為、身悶えながらも鬼は姿を保ったままだ。
鬼は燃え上がりながら注連垣へと近付いてくる。注連垣が破壊されれば、空を覆い尽くす魔虫が一斉に三人を襲って来る。鬼の目的は注連垣の破壊。
このままではまずい……と、翔の全身が真紅の焔に包まれ鬼へと伸びて行く。ゆっくりと炎駒の姿に変化しながら。炎駒は全身から焔を立ち上らせながら咆哮 を放った。その叫びが焔をまとい空を灼く。その身の焔で鬼を焼き、咆哮で空の魔虫を灼 く。
それは凄まじい光景だった。まさに翔の怒りそのものが具現化したと言えた。だがそれだけでは足りない。空を覆い尽くす魔虫は余りにも数が多い。
今度は昴の全身が碧 の輝きに包まれた。突風が吹き荒れ、白竜王が具現化した。大地から幾柱も竜巻が、空へ向かって立ち上る。魔虫が巻き込まれ、ぶつかり合う竜巻が起こす鎌鼬 に、引き裂かれ切り刻まれる。
再び炎駒が咆哮と共に焔を吐いた。竜巻がそれを巻き込み、魔虫たちを灼く。魔虫たちは切り刻まれながら、焔に灼かれて行く。
だがそれでもなお空は見えない。
二条の屋敷で魔虫や鬼を退治した時とは、数も規模も余りにも違う。如何に神獣が転生したとは言っても、あくまでも人の身は人の身。限界が存在する。長時間にわたる変化は、人の身の生命を投げ出す覚悟がいる。
惺だけではなかった。昴と翔も共に生命を投げ出す覚悟をしていたのだ。投げ出す限りは魔虫を全て滅ぼし、元凶を叩かなければならない。さもなくばたとえ彼ら三人が息絶えようと、京の怪異は続く可能性があった。
誰かが闇への門戸を開け放ってしまったのだから。それが開いている限り魔虫は次から次へと出現する。
惺は朱雀を一体外して、闇との通路を探し求めた。深き闇の奥底が求めるのは自分。その身を与えれば、目的を果たした門戸は閉じられるであろう。怪異は鎮まる筈だ。
5体の朱雀を駆使するのには限界がある。身を与えれる為の体力を残しておかなければならない。
昴と翔の体力にも限界がある。もっと力が欲しい。愛する方を守る為に。大切な方を未来へ向かわせる為に。
惺の細い両腕は天に向かって差し出されていた。
「八百万神……よ」
絞り出すように呟いたその時、天空を雷鳴が貫いた。音もなく周囲の瓦礫 が宙に浮かんだ。
「!?」
魔虫を吹き飛ばすようにして、瑠璃色の 竜が雷鳴を伴って姿を現した。その姿は白竜王より遥かに巨大だった。
《大哥 !》
《東海青竜王 ミカエルさま!》
白竜王と麒麟王炎駒が同時に瑠璃色の竜を呼んだ。それに応えるように瑠璃色の竜が吼 えた。
すると魔虫がバラバラと地面に落ちて行く。続いて何処からか一際甲高い声が響き渡り、真紅の輝きが出現した。姿を現したのは惺が放つ式とは、比べものにならぬ程大きな朱雀だった。
《我は朱雀王なり。竜王よ、加勢いたす》
《忝 い》
《その者の願いに応えただけよ》
朱雀王は惺を見下ろしてそう答えた。
《我が配下よ、我に従え》
朱雀王が式にそう告げると、彼らは一斉に輝きを増した。朱雀王が翼を翻 す。それだけで炎が魔虫を焼き払う。式が朱雀王に従った為に、術者である惺の負担が半減した。
すかさずもう1枚護符を取り出した。
「急々如律令!
西方の守護神白虎!」
白虎が姿を現した。闇の門戸を探索させる為だ。朱雀が全てその王に従った故に。
一気に強力な加勢が増えた為に、さすがに魔虫の数が減り始めた。今ならばどこから出現するのかわかる筈だ。
白虎が発見したのは遥か化野 の方角だった。弔われる死者を利用して、呪詛を行ったのだろう。
惺は白虎を呼び戻し、その背に乗り化野を目指す。竜王たちも麒麟王も朱雀王も、魔虫に気をとられている。
白虎は凄まじい速さで宙を駆け抜けて行く。その背に縋って惺は自分の宿命に向かった。
目の前に闇の奥津城 への通路が、禍々 しく口を開けていた。そこから次々と魔虫が溢れ出している。
惺は白虎の背より降りた。昴に渡された真珠の結界がある為、魔虫たちは惺に未だに気付いていない。声を発しない限り、彼の存在そのものを探知出来ない。それが結界というものだ。
惺は白虎の背を撫でて心で命じた。昴たちに加勢するようにと。白虎はすぐに大地を蹴って空へと飛び立った。
呪で精霊たちを呼び集め、縛る事で式神は姿を持つ。精霊には本来、人間の価値観による善悪は存在しない。故に術者の命令に従うのである。彼らには人間が考えるような心はない。複数の精霊の寄せ集めを呪で束縛しているだけだ。
深い深い闇そのものが、化野の枯れ薄の中に口を開けていた。惺はその闇に向かって踏み出した。怖くないと言えば嘘になる。悲しくないと言っても嘘になる。だが闇が欲するのは自分の生命だとわかっていた。自分が闇へ身を投ずればこれは消え失せる。
確信のようなものがあった。溢れ出てしまった魔虫は取り残されるが、それは昴たちが退治してくれるだろう。そして京は静けさを取り戻す。それで良い。
ぽっかりと口を開けた闇の縁に立ち惺は静かに目を閉じた。
「神々と御仏にお願い申し上げます。どうか皆さまをお守りください…」
願うのは大切な人々の幸せと安らぎ。守る為の方法はたった一つしか、惺には見えなかった。
この方法しかなかった。昴の望みを裏切る事になる。でも彼に生きていて欲しい。たくさんの愛情をもらえて、惺は自分が生まれて来た事を喜べたから。
「ありがとうございます。お別れでございます、我が背の君、昴さま!」
届く筈のない声をかけて、惺は闇へ向かって踵を返した。闇は音もなく口を開けて、深い深い奥津城へと惺を誘っていた。
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