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惨劇

 次の夜、京中が大騒ぎになった。左京の市辺りから夕刻火の手があがり、朱色(あけいろ)の炎が昴たちが住む二条の屋敷や禁中(きんちゅう)に迫りつつあった。 『下鴨に逃れよ』  父帝からの使いがそう言って来た。  下鴨神社は賀茂川と高野川がY字型に交わる場所の北側にある。地下水脈の豊富な京の中でも、ここは最も豊かな水をその大地に蓄えている。  川と大地の水。この二つの条件で京の火事の際、度々避難所となった。人々は賀茂川の東へ逃れ、禁中の人間や公卿(くぎょう)は下鴨へ逃れる。  混乱を避ける為のルールだった。  昴と翔は牛車に女房たちを乗せ、自分たちは馬に跨がった。惺も昴の馬に乗せてもらう。  人々の悲鳴  怒鳴り声  牛車の車輪の軋む音  焦臭い臭いと熱気  それでも人々の避難は進んで行く。京の町は794年の遷都以来、|度々《たびたび》火事に見舞われて来た。  木が主体の建造物。消火技術もない時代である。まだ小火(ぼや)のうちならば、消し止められる。しかし炎が力を得て燃え上がってしまっては、最早誰も止められない。ある程度焼き尽くし、空が紅に染まるまで。その熱気が雲を呼び、雨が降り出すまで。  残酷な炎は庶民も公卿も関係なく、灼熱の舌で舐めて行く。昴たち二条の屋敷の者、地下人雑色(ぞうしき)に至るまで全員、無事に下鴨に逃れる事が出来た。  昴たちが来たと聞いた帝が、早々に彼らを神社へと呼び入れた。 「主上、式部卿宮さんがならしゃりました。」  蔵人頭が声をかけると、急場に設えた御座(おまし)で顔を上げた。 「主上、おするするであらしゃりますか?」 「大事ない。  おお、翔も六位の君も無事か」 「早くに勅をいただきましたので、屋敷の者全員が無事に逃れて来れました。  感謝申し上げます」 「ふむふむ。おするするで何よりじゃ。御息所の所へ顔を見せておやり」 「はい」  挨拶に上がる者が待っているので昴たちは早々に、御前を退出し御息所に挨拶に行き互いの無事を喜んだ。  その間に用意された部屋へと入った。 「朝までに消えると良いが…」  翔が呟いた。  京の火事はたくさんの被害が出る。すぐには片付けが出来ずに、焼け焦げた家屋や骸が放置されたままに何ヶ月もある。それでも民草は強い。焼けた建物を取り除き、焼け残った物を取り出していく。気が付くと町はいつの間にか、元の姿を取り戻しているのだ。  火事の空は赤い。家々を焼き尽くす炎は、天をも焦がす勢いで燃え盛る。その炎を遠く(ただす)の森越しに見ていた惺が、小さく声をあげて後退った。 「惺、如何した?」  何事かと廂近くに来た昴も、惺の肩に手を置いた瞬間、息を呑んだ。翔も立ち上がってそっと、惺の袖を掴んだ。彼に触れる事で見鬼の力が発動するからだ。 「な…何だあれは…」  炎が空を舞っていた。その炎はまるで犬のような姿をしていた。 「炎狗(えんく)だと思われます。誰かが呼び出したとしか……」 「これは呪なのか…この火事自体が!?」  皇家の一員として、民が無用な苦しみを受けるこのような事態は捨てては置けない。 「惺、何とか出来るか?」 「私一人では無理でございます。父を…陰陽頭を…それと、神泉苑(しんせんえん)の竜を呼ぶ事を主上にお許し願わなければ」 「神泉苑の竜?」 「はい。あれは雨神でございますれば」 「なる程、雨を呼ぶか」  翔が惺の言葉に納得した。 「私が主上に奏上して、早急に手筈を整えよう。  どこに準備をする?」 「御手洗社の前に。  それと昴さまと東の君さまのお力を、お借りいたしとうございます」 「わかった」 「何でもいたそう」  二人の言葉に頷きながら、惺は急がなければと思っていた。あれが京の町を民を焼き尽くす前に。  それは前代未聞の光景だった。  神泉苑の竜を呼び起こす儀式を執り行うは、表向きは陰陽頭ではあった。だが惺は昴と翔、それに紫野(むらさきの)斎院御所(さいいんごしょ)から逃れて来た、斎院の斎王までを従えるようにして父の読み上げる祝詞に和した。 「掛けまくも畏き吾が三柱大神を 始めて又殊(またこと)(いつき)(まつ)()せ奉る (あま)水分(みまくり)の神 国水分(くにのみまくり)の神  天津神国津神(あまつかみくにちかみ) 神八百万神等(かむやおよろずのかみら)の 御前に 畏み畏みも(まお)いさく……」 祈雨祭詞……だが竜の気配はない。惺は父に駆け寄って、交代を願い出た。兄二人の顔が怒りの色を帯びるが、惺は彼らより位階が上であり式部卿宮の正室だ。  (だん)に進み出た惺を守るように昴と翔が寄り添う。  それは不思議な光景だった。そこここに明かり取りに設えた篝火(かがりび)の光はほのかだ。それなのに三人のいる場所だけが明るく光が灯っていた。星々の光や月明かりが彼らだけに、降り注いでいるようだった。  その中で惺は口を開いた。 「高天原(たかあまはら)()し坐して 天と地に御働(みはたら)きを 現し給う竜王は 大宇宙根元の御祖(みおや)の御使いにして 一切を産み育て 萬物(よろずもの)を御支配あらせ給う 王神(おうじん)なれば 一二三四五六七八九十(ひふみよいつむなやこと)十種(とくさ)御宝(みたから)を 己がすがたと 変じ給いて 自在自由に 天界地界人界を 治め給う 竜王神(りゅうおうじん)なるを 尊み敬いて (まこと)六根一筋(むねひとすじ)に 御仕え申すことの (よし)を受け引き給いて 愚かなる心の数々を 戒め給いて 一切衆生(いっさいしゅじょう)の罪穢れの衣を 脱ぎさらしめ給いて 萬物(よろずもの)病災(やまいわざわい)をも 立所(たちどころ)に 祓い清め給い 萬世界(よろずせかい)御祖(みおや)のもとに 治めしせめ給へと 祈願奉(こいねがいたてまつ)ることの 由をきこしめて 六根(むね)のうちに 念じ申す大願を 成就なさしめ給へと (かしこ)み恐み(まお)す」 「竜神祝詞か…!?」  惺が唱え終わって翔が呟いたのとほぼ同時に、昴の身体がゆらりと崩れ落ちるように倒れた。 「昴!」  抱き起こすと瞳は開いてはいるが光はない。  すると周囲からざわめきが起こった。皆、一様に上空を指差していた。真っ白な竜がそこに姿を現していた。  ああ…これは昴だ。  翔はとっさにそう思った。と……次の瞬間、翔の身体も崩れ落ちた。上空に紅の炎をまとった麒麟(きりん)が姿を表した。真紅(しんく)の麒麟。炎駒(えんく)と呼ばれる、炎の麒麟である。  白い竜が指先を軽く動かすと、突風が下鴨神社を揺るがした。それは惺の身体を巻き上げ、その背中に導いた。  驚いた陰陽頭が叫んだ。 「御名をお教えくださりませ!」  式部卿宮昴の化身らしいとはわかっても、大事な息子を背に乗せているのだ。 《我は西海白竜王(せいかいはくりゅうおう)なり》  頭に言葉が鳴り響く。 《我は従者、麒麟王炎駒(きりんおうえんく)なり》  その言葉を残すと惺を連れて神泉苑へと飛び去った。程なくして南で竜の叫び声が聞こえた。  雷鳴が(とどろ)き渡る。稲妻が夜空を切り裂き一瞬、辺りを照らし出した。しばらく雷が鳴り響いた後、轟音と共に雨が降り出した。空を見上げていた公達や地下人も慌てて、屋根の内側へ避難する。  昴と翔を移動させようとして陰陽頭が制した。彼らの身体は壇の結界の中にある。しかも結界の内側は雨は降り注いではいない。  陰陽頭は空を仰いだ。  空を焼く炎が鎮まりつつあった。彼にも炎狗が飛び回る姿が見えていた。だが彼にはそれを消し去る力はなかった。それでも壇を設える為に、惺が自分を呼んだのだとわかっていた。  西海白竜王と麒麟王炎駒。まさに神仙郷(しんせんきょう)の神々たちだ。その背に惺は乗って京の大火を鎮めに行った。  ふと彼は御簾の向こうに目をやった。自分の息子が竜王神と知った帝は今、如何なる御心持ちであられるのか。  自分の娘が産んだ東宮を、早く高御座(たかみくら)(天皇の位)に上げたくてウズウズしている左大臣。彼はこの事態をどう見たであろうか。  竜と麒麟。どちらも賢帝の証。  陰陽頭はこの事態をおさめる一つの手立てに思い至った。三人を守るにはそれしかない。もしそれ故に天の神々の怒りを受けようとも、彼らの現身(うつしみ)を守りたいと願った。  火事の色が空から消え雨が止んだ。雷鳴が轟いて神泉苑の竜が再び眠りに就いたとわかった。  再び白竜王と麒麟王が姿を現し、壇の側に惺を置いて消えた。  惺は穏やかな表情で眠っていた。程なくして昴と翔が起き上がった。記憶がないらしく不思議そうに周囲を見回した。 「頭、何が起こった?」  昴が問い掛けた。 「宮さま方のお姿を借りて、神々が降臨なされました。惺を連れて神泉苑の竜を呼び起こし、雨を呼んで火事を鎮めてくだされました」  その言葉に昴は眠っている惺を抱き上げた。力を使い果たしてぐっすりと眠っている。 「頭、任せて良いか」 「はい。それも私の役目にございますれば」 「うむ。翔、参るぞ」 「承知」  好奇の眼差しを振り切るように、惺を抱き上げた昴の後を翔が行く。先程与えられた部屋で、惺の乳母が寝所を整えて待っていた。  昴の女房がほぼ全滅した上に残った者も粗方宿下がりをしてしまった。翔が何人か自分の女房を回してくれたものの到底手が足らない。  それで自然と惺の乳母と女房たちが、細々とした事を行うようになっていた。  陰陽頭は今回の事態をこう説明した。  今上の賢帝の御印に昴と翔の力を借りて、瑞兆(ずいちょう)である竜王神と麒麟王が駆け付けたのだと。ひとえに主上の常日頃の御心故の奇跡であると。  本当はそうではなかったとしても、三人の生命を守る為にはこれが一番の説明であった。  では何故(なにゆえ)に頭ではなく惺の呼び掛けに応えたのか。左大臣の問いに、陰陽頭は臆する事なく答えた。 「神仏より賜りし力が私よりも息子の方が強くございますれば。  ただそれだけにございます」と。  帝が全てを信じたので左大臣は、それ以上の問い掛けを発する事が出来なかった。

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