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第1話

 今朝も新城北総合病院の朝は忙しかった。  二十四時間対応している救命救急にはひっきりなしに人が出入りしている。  満床となっているベッドを空ける為に容体が安定している患者が別病棟へ移されるが、小児科も例外ではない。  今朝も一人、人工呼吸器が外された少年が運ばれてきた。空いているベッドは残り少ない。十月に入ったばかりで、まだ風邪やインフルエンザなど厄介な病気が流行する季節ではないがベッドが埋まって行くのを見るのは良い気分ではない。 「柴先生、外来の前に回診お願いします」 「解った。今、行く」  他県の診療所から転属して来て一週間。  新城北総合病院:小児科医 柴 螢太(しば けいた)という名札にはまだ慣れない。胸元に白く輝く名札をチラリと見た後、バサリと白衣を羽織って医師控室を出た。朝、来る途中に買ったコーヒーとサンドイッチが少し残っているが時間だ。  小児科を専門とする個人経営の診療所で仕事をしていた時に入院患者の診察は無かった。  のんびりとした雰囲気の中で軽度の症状を訴える子供達を中心に診ていた二年間が大きなブランクに感じられる。 「別にさぼってた訳じゃないんだけどなぁ」  廊下を進み、エレベーターで本館九階へ移動する。 「おはようございます、柴先生」 「おはよー。今日もよろしく~」  廊下ですれ違う看護師達に挨拶を返し、ナースセンターに立ち寄る。柴が声を掛けるとセンター内に居たナース達が一斉に振り返り、ウフフと笑いながら談笑を始めた。  柴の身長は百六十五センチだ。それほど高く無いし、体も細い。  陽に当たると明るい茶色に見える短い癖毛や女性が羨むような長い睫毛、クッキリとした二重に大きな目、スッキリと通った鼻筋という容姿は医師というよりモデルや芸能人と言った方が相応しい。  妬みの対象にも成り得る恵まれたルックスではあるが男性にしては低い身長と、いつも笑みを浮かべているように見える口元、左の目尻近くにあるホクロが愛嬌を振り撒いていて嫌味が無い。気さくな人柄も手伝い、看護師達の受けは良かった。 「先生、今日も可愛いわね」  珍しく回診に出て来た看護師長が言った。今朝の回診担当が新入りの看護師でそのお守りといった所だ。 「看護師長、ソレ、言わない約束だろ? 俺、結構、気にしてるんだからな」 「転属初日、私服姿で病院に入ろうとして警備員に『外来受付はまだだから、暫く待って親と一緒に来い』と言われ、白衣を着て院長室に行ったら『研修医は挨拶に来なくていい』と言われ、更に……」 「だーかーら、言うなって言ってるだろ!」 「新しい先生が診療所から来るって聞いて皆、不安がってたのよ。年のいった頭の固い先生だったらどうしようって。それがこんな可愛い若い先生だから毎日楽しくてしょうがないわ」 「若いって言うけど、俺、三十二だからな。お坊ちゃん扱いされるなんて心外だ」 「私から見ればこの病院の先生は殆どがお坊ちゃんよ」 「……どう突っ込んでいいのか解らねぇ発言は止めてくれ」  漫才のような遣り取りを看護師長と交わした柴は渡されたカルテを見ながら大部屋から順番に回った。  幸い、今、入院している子供達は殆どが退院前の検査中だったり、結果待ちだったりする。子供の容体は急変し易いので気は抜けないが、深刻な症例は無かった。しかし、別に意味で神経をすり減らすことがあった。 「先生、次はさくらちゃんです」 「……さくらちゃんかぁ」  心臓疾患で入院中のさくらちゃんは柴にとって強敵だった。  個室の前で小さく溜息を吐いてから柴はドアをノックした。 「さくらちゃん、入るよ」 「今日は昨日より二分三十秒遅いのね」  中から鈴の音のような可愛い声が聞こえた。早々に一発パンチを食らった気分になる。 「ドアの前で溜息吐いたでしょう? 女の子に失礼よ、柴ワンコ先生」 「は? 柴ワンコ?」  病室に入り、聴診器を耳に当てようとした柴は間抜けな声で聞き返した。  花瓶の水を入れ替えていた母親が慌ててベッド脇に戻って来た。 「看護師さん達が言ってたわ。新しく来た先生は髪が茶色いし、小柄だし、可愛い柴ワンコね、って」 「さくら! 先生に失礼なこと言わないの!」 「だって本当に言ってたんだもん。ね、看護師長さん」  ハート柄のパジャマを着てお気に入りのクマのぬいぐるみを抱っこした強敵は看護師長を味方に付けようとしていた。新人看護師は必死に笑いを堪えている。 「なぁ、看護師長、俺、柴ワンコなの?」 「私の口からは何とも申し上げられませんが、さくらちゃんは決して嘘を言う子ではありませんよ、柴先生」  コホンと咳払いしてからウインクした看護師長を見てさくらちゃんは自信に満ちた笑顔になった。母親が慌てて頭を下げる。 「名前が柴だし、髪が茶色いだけじゃなくて先生、首輪もしてるでしょう?」 「首輪?」 「ほら、それ」  子供の観察力は時に大人を驚かせる。柴は降参した、というように頷いた。  ベッドサイドに腰を下ろし、水色のワイシャツの首元を緩めて細い革製のネックレスを見せた。黒い革紐に柴の誕生石であるペリドットが付いている。 「首輪じゃねぇよ。これはネックレス。兄貴が俺にくれた大切なものなんだ」 「ふぅん。誰かに飼われている訳じゃないのね」 「俺は犬じゃねぇ」 「すみません、先生」  何度も頭を下げる母親に笑って見せた柴はさくらちゃんの頭を撫でてから診察を済ませた。 「検査数値も良好で、これだけ元気だったら直ぐ退院できる」  大丈夫だ、と元気付けようとした柴だったが、突然、さくらちゃんが口を噤んだ。可愛い唇がキュッと結ばれている。 「どうした? さくらちゃん?」 「気休めはいいのよ、先生。私、知ってるんだから」 「知ってるって、何を?」 「私、ペースメーカー無しじゃ生きていけないんでしょう? 成長するのに合わせて機械を入れ替えなきゃならないんでしょう? その度に検査したり、手術したり、何回も入院したりしないといけないんでしょう? 普通の子とは違うの」  目を閉じ、ツンと顎を突き出してそっぽを向いたさくらちゃんは少しの沈黙の後、ポツリと言った。 「機械がないと私、死んじゃうんだ。機械が壊れたら死んじゃうんだ。この前だって急に機械が動かなくなって……。名前のとおり春には桜の花みたいに散って消えちゃうかも……」  母親がさくらちゃんを抱きしめた。  先天性の心臓疾患があり、何度も手術を受け、今もペースメーカー無しでは生きられない少女が常に抱く不安が垣間見えた。  例え調子が良く元気な時であっても死の恐怖を誰よりも近くに感じている。小さな体で重い病に立ち向かい、日々、全力で生きている少女の前ではどんな言葉も無力に思える。  どうしたものか、と困った表情の柴は頭の後ろを掻きながら看護師長を見た。彼女はカルテの名前が書かれている付近を指さしていた。生年月日が書かれている辺りだ。 「あ! そうだ。さくらちゃん、今日、誕生日だったよな」 「え?」 「誕生日だろ? ケーキ買って来るから今夜、お祝いしような」  柴は明るい声で言った。話題を変えて場の空気を軽くしようと思ったのだ。 「失礼な先生ね! 個人情報覗き見したの?」 「こ、個人情報……、いや、その……」 「それにケーキなんて子供騙しも良い所よ。私、もう十歳なんだから。一階のコンビニで売ってるケーキなんてイヤよ」 「あの、いや、そんなんじゃないプレゼント買ってくる」 「ふぅん。お手並み拝見ね」 「今日だけじゃない。毎年、必ず渡すよ。必ず、ずっとずっと柴ワンコ先生が付いてるから大丈夫だ」  な、と柴が笑顔を作ると母親が礼を言いながらさくらちゃんに着替えをさせ始めた。これ以上主治医を困らせてはいけない、と思ったらしい。  柴はもう一度さくらちゃんに笑顔を向けてから病室を後にした。 「忙しくて買えなかった、なんて大人のありきたりな言い訳は通用しないんだから」  背中に厳しい督促が飛んできた。廊下を歩き出した柴はやれやれと苦笑し、看護師長を見た。 「サンキュー! 助かった。いやぁ、どうも俺って気が回らねぇんだ。看護師長のお蔭で何とかなった」 「何とかなったのかしら? 先生、約束大丈夫?」  看護師長が厳しい口調になった。楽しみの少ない入院中の子供にぬか喜びさせるような医師は最低だ、とその目は言っていた。 「だ、大丈夫だって。ちゃんと買ってくる」 「今から外来診察でしょう?」 「昼休み、飯ナシで買いに行ってきます……」 「女は怖いわよぉ。気を付けなさい」  まるで楽しんでいるかのように言った看護師長と、今日一日の笑いのネタと夕方まで続く楽しみを手に入れた新人看護師はナースセンターに消えて行った。 「やれやれ……朝から弄ばれた気がしてならねぇ」  疲れた、と肩を落とした柴だったが、時間は待ってくれない。大勢の外来患者が待っている。  柴は本館三階、小児外来診察室へ足を向けた。

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