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第11話(完)

 春先に大幅な人事異動が行われ、巻田は営業一課を去った。  次のポストは人事部長で、これは異例の昇進だった。 「枕で干されてんだと思ってましたよ」 「なんだそりゃ。上の世代が詰まってたんだよ。前任の人事部長からは、けっこう頭下げられてたね。あれはあれで嫌な仕事だよな」  空かないポストの皺寄せを引き受けていた巻田は、その甲斐あっての一足飛びの出世となった。しかし本人は、人事部だけは嫌だったと眠たげに笑っている。  営業一課の課長には室田が就任し、猿崎は諸々繰り上げで主任の肩書を得た。  春からこっち巻田とは、たまに喫煙所で顔を合わせるくらいだ。 「おまえ、煙草吸ったっけ」 「一回やめたんすけどね、給料上がったんで」  解禁。立ったままの腕組みで白煙を吹く元部下に、ふうんと鼻を鳴らす巻田にしても、然程煙草のイメージはなく、食後に一本だけ楽しむスタンスだ。 「つうか、ほんとはゲイでしょ」 「しつこいね」  あれから何度目かの詮索に、巻田は呆れ顔で紫煙を吐き出し、銜え煙草で左の指の細いリングを弾いてみせた。それにしてはゲイセックスに慣れ過ぎだよなと思うが、深くは突っ込まないでおく。 「そっちはどうなんだよ、女子大生とは続いてんの」 「とっくにフラれましたって」  一度はヨリを戻したものの、ひと月と経たず破局した。聞けば二股もかけられていた。所詮はその程度の付き合いだった。 「相変わらずね」 「そうでもないですよ」  いま付き合っているのは、悪友北川の妹だ。大事にできる女が欲しいと言ったら紹介してくれた。彼女は昔から兄の友人に気があったということで、鉄壁のガードで隠されていた箱入りを粗末に扱うわけにもいかない。 「出世の一番の近道は、結婚だぞ、猿崎」 「やべ、考えねえと」  恍けた目で煙草をふかした。巻田はアラフィフの分厚い頬を崩し、ちびた煙草を灰皿の隅で揉み消し、立ち上がった。 「会社ってのはわりと良心的なんだよな。人事も人間で、迷ったら家族養う立場のやつに優先的にポスト与えるから、そういう選択肢もあるってだけ覚えとけよ」 「そういうとこ小狡いっすよね、巻田さん」 「おまえな、こういうのは堅実っていえ」  お先、と通り過ぎる横顔に、フウと煙を吹き掛けた。  冷ややかに向けられた重い瞼に、評判のいいスマイルですいませんと謝罪したら、体の陰で股間を掴まれ、捻られた。 「うひっ!」 「ふざけてんじゃねえよ、おまえな、しっかりやれよ。査定すんのおれだぞ?」 「はいぃ」 「見てるからな、頑張れよ」  肩を叩く素っ気ない背中を眺め、股間を揉んで労った。立ち去る中年の背は、猿崎より五センチは低く、微かに見える頭頂部も年々薄くなっている。  こうして見る巻田は、ただのおっさんだ。それでも気付けば目が追っている。 「今日は、飲みどうすか巻田さん」 「パス」  つれない地味な背広が、戸の向こうへ消えた。  猿崎は残された煙草を揺らし、長いそれを灰皿で潰し、暗い水底へ放り込んだ。  煙草なんて高いし臭いし、体に悪いし歯も黄ばむ。こんなもの吸うやつはバカ。  変わらぬ理屈で一日一本。別に転向はしていない。これに理由も意味もない。なんて。  くすぶる煙の行く末ばかりは、大人の秘密というヤツだ。

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