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第1話
それはきっと、取るに足らないものだった。
斜陽のきつい夏の夕暮れ。コンビニの前に佇む男。目の前の出来事すべてが、一枚のフィルムに収められた静止画の羅列に見える。彼は分かりやすく美しかった。少なくとも私にはそう見えた。西日を反射させてきらきら瞬く派手な金髪と、耳や顔の薄い皮膚を突き破り不均等に散らされたピアスの数々、斜陽に晒された二メートル近い大きな体躯は光をまとったように輝いて、まるで月の雫が空から降ってきたようだった。煙草を咥える彼の口元、それを挟む指先、気だるげにたわんだ猫背の曲線、盛り上がった肩甲骨、吊り上がった目尻、金髪、ピアス、彼を構成するすべて、どこを切り取ってもひとつ残らず美しかった。それらひとつひとつ、私の人生にはすべて取るに足らないものもの、しかし余りに眩しくて美しく魅せられたものだから、その男が顔見知りだと気づくのに暫くの時間を要した。
不意に彼と視線が重なり、立場上無視するのもよろしくないと思い足を彼に寄越した。彼は私を黙って静観し、短くなった煙草を地面に放ると砂埃にけむった革靴の爪先で執拗にそれを押し潰した。
「こんにちは、久留須くん」
「……………どうも」
警戒心を剥き出しにして蜷局を巻く蛇のようだ。彼は私の頭から爪先までを舐めるように観察すると、今度は興味を失ってしまったのかあまりに素っ気なく視線を外した。彼のその態度に、私は少なからず呆気にとられていた。
彼は私の勤める高校の生徒だ。四月の入学式を終えた後、五月半ばの妙な時期に編入してきたのをよく覚えている。これだけ派手で目立つ男だ、更には突然の編入で、彼は学校中どこへ行っても注目の的だった。しかしそんな奇抜な(理不尽な暴力のような勢いの)見てくれとは裏腹に、学校での彼はとても人懐こかった。少なくとも私にはそう見えた。生白い顔にはいつも軟派な笑顔を貼り付けて、女生徒にも男子生徒にも分け隔てなく、過不足なく親切に振る舞った。その愛嬌じみたものに誰もが引き寄せられるのだろう、彼は運動部の早朝練習に誘われるがまま、おとなしく参加していることもしばしばあった。活力を漲らせる肉体はミケランジェロの彫刻のようにととのい、美しく磨き上げられ、そしていやらしく生々しい匂いをさせた。勢いよく体内を流れる血潮が、その皮膚を透かしてこの目に焼き付く錯覚にまで襲われる。瑞々しく眩しく、まだ若い果実のような肉体は、恐らく彼を見るすべての者の心臓を強く震わせただろう。
私の知り得る「彼」という人間はそういうものだったから、今目の前で表情ひとつ動かさず、気のいい会話もない彼に(それを求めていたわけではないけれど)違和感を覚えていた。黄昏時だからだろうか、夕日に赤く染められた彼の横顔が寂し気で、それを見るにつけ何故だか胸が酷く痛んだ。彼の左の目元にきらめくピアスが、まるで涙の粒に見えてしまったほど。泣いているのではないと知りつつ、しかしその光を拭いたくて彼の目尻に手を伸ばすと、彼は案外素直に目を閉じて触れることを許してくれた。丸いピアスのつるりとした心地よい感触が楽しくて、人差し指の腹や爪の先でふたつ並んだそれを辿ると、太く骨ばった彼の大きな手が私の手首を掴んだ。
「………なに」
「いいえ。………そのピアスが、涙に見えてしまって」
「泣いてるとでも思った?」
「……………はい」
正直に答えると彼は私の腕を解放し、長く息を吐き大きく伸びをして私に向き直った。
「キスでもされるのかと思った」
「え?」
訊き返すより早くピアスだらけのきらきら光る顔が近付き、唇の表面を彼のそれが素早く掠めると即座に離れ、私は呆気にとられたまま何も言葉を告げられなかった。そして彼は最後まで微笑みひとつ浮かべぬまま、色のない唇の隙間からピアスのはめ込まれた朱い舌を覗かせて、踵を返すと無言のまま去って行った。彼にとってはただの揶揄だったろう、しかし突然の出来事に私の心は自らが想像していた以上に騒ぎ出し、快も不快も理解しないまま胸の詰まる想いを抱えて去り行く背中を見送ることしか出来なかった。
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