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第64話【終】

 ○  月崎雛菊  それからしばらく、仕事を休んだ。その間、部屋の隅々を掃除し、ソファの革を張り替えて、寝室には百合の花を飾った。穏やかな日々だった。四日目には榊を招いて食事をした。榊はその後について何も触れなかったし、私も話さなかった。胸の内だけに留めておくのが最善だと思ったからだ。特別なことなど何もない、いつもどおりに、静かにゆるやかに、私の一週間は過ぎて行った。  一週間ぶりに仕事へ戻ると、保健室の窓から皆元が顔を覗かせた。私が休んでいる間も毎日保健室へ通っていたらしいことを本人から聞かされた。 「先生、落ち込んでる? 慰めてあげようか」  彼女の申し出に、いいえ、と返した。 「落ち込んでいませんよ、むしろ落ち着いています」  そうなんだー、と彼女はがっかりしたようにわざとらしく語尾を伸ばし、予鈴が鳴るとともに教室へ駆けて行った。グラウンドで部活の早朝練習に励む生徒たちも、蜘蛛の子を散らしたように走り出す。その中でもひと際目立つ、美しい金髪の少年を見つめた。清潔な汗を散らす、顔中ピアスだらけの少年だ。一度だけ彼と視線が交差し、どちらからともなくゆっくりと逸らした。私たちの間にあるのは、それだけだった。  七月の太陽は眩しかった。それに照らされる彼は、もっと眩しかった。黄金色の髪はちかちかと輝いて、つるりとした目元のピアスは涙の雫のように煌めいた。砂埃を巻き上げた風が、開け放した窓から入り込む。蒸し暑い日だった。青く若々しい匂いがけぶった。私は目を閉じて、新鮮な空気を身体中に沁み渡らせるように大きく息を吸い込んだ。寂然として、しかし清々しい気分だった。  爽やかな夏空を仰ぎ、閉じられた瞼を透かして照りつける熱を感じながら、私は静かに祈りを捧げた。どうか彼が、明日も無事にこの目映い朝を迎えられますように。これからの彼の人生が、たとえ暗く湿っていても、どうかどうか、幸福でありますように。  瞼の裏に映し出される美しい日々を、私はいつでも、何度でも想い返すのだろう。磨き抜かれた彫刻のような美しい肉体に、彼を彩る清潔な汗に、甘く匂い立つ熱に、肌に、眼差しに。熱く胸を焦がし、互いを深く愛し合えた時間が確かにあることを。瞬く間に過ぎてしまった、夏の短い夜のことを。  閉じていた瞼を上げる。グラウンドは一気に静まり返る。そこには、もう誰もいなかった。

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