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第63話

 思えば出会ってから今まで彼に振り回されるだけ振り回されて、挙句の果てに捨てられようとしているだなんて、私のおよそ三十年の人生の中で無駄に培ってきてしまった自意識過剰なプライドが許せるはずもなかった。私は蛇岐の胸倉を掴んで引き寄せ、拳を振り上げその白い頬にめり込ませた。人を殴るのは今日が生まれて初めてで、骨同士のぶつかる音がして指の付け根から鋭い痺れが走り奥歯を噛み締めた。蛇岐は少し顔を横に流しただけで、大した衝撃を受けているようには見えない。興奮に息は上がり、握った拳は感覚が鈍り暫く震えた。 「……………もう話もさせてくれませんか」  肩で大きく呼吸をする。声は情けないほどに震えて、七月も目前に控えた夜なのに、寒気すら感じた。 「もう、私の顔も見たくないほど、嫌いになった?」  ゆっくりと彼を窺えば、彼は何故かとても傷付いた表情をして、泣き出しそうに唇を震わせた。 「私はもう、どうしていいのか分からないんです」  そう言って涙が零れた。拭っても拭っても、その勢いは増すばかりだった。  私は彼がこわい。それは紛れもない事実だ。本当に殺すつもりはなかったとしても、死への恐怖に脅かされたのも事実だ。彼が私を愛していたのも、私が彼を愛していたのも、これまで起こったすべては疑いようのない事実だった。 「蛇岐、私は」  そこで区切られた言葉は、後へは続かなかった。確かに告げようと心に決めたはずなのに、それを言葉にしようとして、しかし次の瞬間には頭が真っ白になった。泣いて泣いて、たった一言を、私は故意に、涙と一緒に飲み込んだ。彼の瞳を覗くたび、薄明りを反射させる刃と血の温度が身体中を支配した。  何も変わらない。私が彼に愛していると言ったところで、私たちは何も変わらないのだ。その言葉を飲み込んでしまったことこそが、何よりの答えなのだ。私の愛なんて薄ら寒いものは、彼に対する恐怖に負けてしまったのだ。  蛇岐は何も言わず私の手にマメだらけの大きな手を重ね、その感触が何故だかとても遠く懐かしいものに感じた。彼との記憶はすべて新しく鮮やかなものばかりの筈なのに、肌を滑る彼の硬い指先が、ざらざらとした手のひらが、遠い昔になくしてしまった大切なものが無事に手元に戻ってきたような錯覚に、胸の奥をじりじりと焦がした。 「雛菊」  蛇岐の声は優しかった。こんな私を、少しも責めていなかった。 「好きだよ」  彼は確かに、そう言った。 「好きだよ、雛菊」  はっきりと、私の耳に届くようにしっかりと、そう告げた。私は何も言えなかった。 「だから雛菊、愛してるって言って」  彼の表情はぐちゃぐちゃに歪んでいた。見れば口元に少しだけ、乾いた血の跡が見て取れた。何も言えなかった。相変わらず涙は流れ続けるし、彼のその告白にさえ、まともな返事が出来なかった。だから私は、首を横に振った。しっかりと、彼が見過ごしてしまわないよう、何度も何度も振り続けた。  それを見て蛇岐は笑って、そして泣いた。きちんと、年下ぶって泣いた。大きな身体を丸めて私の懐に入り、私を強く抱いて泣き縋るその姿はとても成人男性とは思えなかった。もしかしたら彼は、私に明かした年齢よりもまだずっと幼いのかも知れない。けれどそれを知る人間はいない。私は彼の頭を抱いて、痛んだ金髪を何度も撫でた。すぐ傍で響く嗚咽に耳を傾けながら、震える肩を抱き締めた。  軽薄な人間だということは疾うに自覚していた。愛情は確かに受け取っていたくせに、私はこれまで、故意にその一言を避けてきた。自分自身に対する逃げ道を用意していた。私はそれを分かっていながら、それでも逃げ続けた。  蛇岐、こんな私を、どうか許して欲しい。あなたを愛しているなんて、そんなこと、とてもとても言えなかった私を、どうか許して。あなたを選んであげられなかった私を恨まないで。そしてどうか、あなたは、私を、忘れてください。忘れてください  許して、蛇岐、と何度も囁いた。こんなにも傷つけてしまったこと、あなたの想いに応えられないこと。  蛇岐は子供みたいに無防備で、私の手を握ると、好きだよ、と言った。当たり前のように、何度もそう言い続けてきたような素振りで。そしてそれと同じだけ、私に求めた。それでも言えなかった。彼が口にする言葉は、まるで私を拘束する鎖のように思えてならなかった。それが恐かった。 「好きだよ、雛菊」  告げられて、また涙が溢れた。本当に馬鹿馬鹿しい、彼と私の今までの稚拙なやりとり。当たり前のことを見逃してきた日々。私は愚かで、彼も同じくらい愚かで、そして私の中に眠っていたこの感情が例えば本当に愛だとするのなら、結局私は私自身を何よりも一番に愛していたに過ぎない。  今私に触れている彼の手が、たくさんの人の命を奪った血で汚れたものであったとしても、そのおかげで彼がこれまで生きて来られたのなら彼が殺し屋だなんてそんなもの、私と彼にとっての障害になり得ないなんて、そんな現実離れした綺麗事、とてもとても思えない。そんなこと、思えるはずもないだろう。  それでも彼は、私に求めた。大きな身体で私に縋りついて、血で汚れた顔をひしゃげさせ、何度も何度も同じ言葉を繰り返した。 「雛菊、愛してるって言って」  彼が身を揺する度、顔を背けたくなるような生臭い匂いがした。彼の足元は赤黒く汚れていた。私は彼を抱き締めた。抱き締めて、涙で濡れた顔のまま目を閉じて深呼吸をした。ひくつく喉を震わせて、何度も何度も呼吸を繰り返した。その後自分が、何を思ったかは分からない。 「愛していますよ、蛇岐」  ちっとも感情の伴わないたった一言と共に、彼の首に両腕を回し首筋に頬を擦りつけた。彼は、知ってるよ、と涙声で何度も囁いた。そんなの初めから知ってる、初めて会った日から、そんなこともうずっと知っている、と。

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