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第62話

  ○  月崎雛菊  榊の部屋でしばらくを過ごした後、引き止める榊を振り切って外へ出た。何も考えたくはなかったけれど、様々な思いが巡り、どうしようもない想いを抱えながら自然と蛇岐の自宅へ歩き出していた。彼の傍にいると逃げ出したくなるくせに、離れていると不安ばかりが募ってしまう。そしてその不安は、彼に会うことで解消されるような気がしてならない。それほどまでに私は愚かになってしまった。ありもしない幻想を抱いて、彼を傷つけていながら、酷なことに私はまだ彼に期待しているのだ。  彼の部屋の鍵は開いていた。この扉の奥で彼と獅子雄が寝ていたら、と嫌な想像もしたけれど、そもそも彼らはそんな関係ではないのだ。ノックをしても返事はなく、恐る恐るドアを開ければ中はもぬけの殻だった  一歩足を踏み入れたものの、主のいない部屋に居座るのは気が引けて結局は外に出た。扉に背をつけ蹲り、膝を抱えて顔を伏せた。泣きたい気持ちだった。私の帰りを待っていたいつかの彼も、こんな気持ちだっただろうか。こんなにも不安で落ち着かなくて、それでも会いたくて、待ち焦がれて。  早く帰って来て欲しかった。でないとなけなしの勇気が一瞬にして萎んで朽ちてしまいそうだった。逃げ出そうかと考えた。しかしきっと、今逃げ出したところで私はここへ舞い戻ってしまうのだろう。帰宅する彼の姿を想像しては嫌な思い出が蘇り、しかし途方もないくらい待ち望んでいるのも確かだった。自らが彼にしてしまった仕打ちを思い出し、いやになって、帰ってしまおうと腰を上げ、私を送り出してくれた榊の顔が浮かび、再び扉の前で彼を待った。そんなことをいくつもいくつも繰り返して、もう何度目か、扉に背をつけ自らを奮い立たせたとき、階下で砂利を踏みつける音を耳が拾った。  咄嗟に顔を上げ、階段へ走る。錆び付いた手すりを握って下を覗き込むと、細く切れ長の目を大きく見開いた蛇岐と目が合った。 「蛇岐……………」  耳障りな甲高い音を立てながら階段を駆け下り、その勢いのまま蛇岐の目の前に立ちはだかった。黒いパーカーは血の匂いを漂わせていた。 「雛菊………」  彼は私の名を呟いて立ち尽くし、そして視線を逸らした。 「………血の匂いがする」 「当たり前だろ………だって人を殺してきたんだ」  彼はそう言って自嘲した。 「……………そう」  どうして再び、ここへ来てしまったのだろう。人を殺し終えた彼を正面から受け止めて、深い後悔の念に襲われた。私は一体、何がしたかったのだろう。ゆっくりと視線を上げ、彼の表情を窺った。苦々しげに眉根を寄せている。 「もう一度、話しをしようかと………」  たしかに自覚してしまった何かを誤魔化したくて、苦し紛れに考えてもいなかったことを口にすると、彼は怪訝な表情を見せ、ゆっくりと首を横に振った。 「もう話は終わっただろう。帰れ、雛菊」 「帰りたくありません」  自分でも驚くほどはっきりと放たれたその言葉に蛇岐は瞠目し、そして今度は険しい表情を作った。 「自分が何を言っているのかわかってる?」 「分かりません」 「そうだよ、あんたは何も分かってない」 「わからなくちゃいけませんか」  今度はどうしてか、その生白い頬を引っ叩いてやりたい衝動に駆られた。この男を目の前にすると、冷静さを根こそぎ奪われてしまう。日頃は押し込めている猥雑な感情が、とぐろを巻くように渦になり、それはいとも簡単に身体の外に出てしまう。今がまさにそうだ。この男は本当に、私に負けず劣らずなんて自分勝手で、なんて我儘な子どもなんだろう、そんなことを思った。彼ばかりを責めるのはおかしいし、自分自身を責め続けるのも間違っている。なぜならお互いが同じだけ悪いに違いないのだから。 「あなたのことを理解しないと、話もさせて貰えないんですか」

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