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第61話

 ○  久留須蛇岐  この人は、どうしようもなく頼もしい男だ。  玄関の扉に獅子雄さんの背を押し付けながら、その肩口に顔を埋めてみっともなくむせび泣いた。人殺し、と叫んだ雛菊の声が頭から離れない。止まったはずの涙は再び溢れて、また声を殺して泣いて、暫くすると落ち着いて、また溢れて零れた。獅子雄さんは何も言わずに俺を抱きとめたまま、慰めることも励ますこともしなかった。 「……………疲れた」  そう呟いた自らの声は掠れていた。 「おまえのでかい図体を支えるこっちの方がもっと疲れる」  獅子雄さんは、鬱陶しい、と呟くと身を捩って俺の肩を押し、身体が離れると長く静かに深呼吸をして部屋に上がり込んだ。そして我が物顔で冷蔵庫を開けると中からビールとミネラルウォーターのボトルを取り出して、ビールの缶をテーブル代わりにしている木箱に置き俺に向かって顎をしゃくった。 「飲め」 「………俺が買ったビール」 「この場所を提供しているのは俺だ」 「そうだけど」  台所の流しで顔を洗い、着ていたシャツで乱暴に拭った。泣き疲れて鼻が痛くて、熱く腫れぼったい両目の違和感がやけに気になった。 「蛇岐」 「獅子雄さん」  互いを呼び合ったのはまったくの同時だった。 「………先にどうぞ」  促すと獅子雄さんは、ああ、と短く返事をした。 「今のこの仕事が、おまえの人生の障害になっているなら、足を洗ってもいい。おまえが何を恐れているのか大方予想はできるが、そうしたところで俺との縁が切れるわけでもない」  やっぱりそれか、と心の中だけで呟いた。獅子雄さんは目を伏せ俯いた。  獅子雄さんと出会ってからの八年を想った。殺し続けた人を数えた。この手で人を殺めるたび、母が死んだあの日(獅子雄さんが母を殺したあの日)獅子雄さんの無表情の裏に隠された、重苦を背負った眼差しが脳裏を過ぎった。 「最初からこうすべきだったんだ、おまえを拾った日から。………おまえの人生は、おまえの好きにしたらいい」  この人と過ごした八年、いいことも悪いこともあった。けれど確かに幸福だった。きっと獅子雄さんが想像もできないくらい、俺には勿体ないほどの幸福に満ちていたのだ。それを獅子雄さんにも(欲を言うならば雛菊にも)知って欲しかった。決断に間違いはなかったのだと。 「獅子雄さん、俺はね」  獅子雄さんに助けられた日のことを今でも鮮明に記憶している。嬉しくて楽しくてわくわくして、まさかこんな幸福が待っていたなんて、それまでの酷い人生にも感謝したいくらいだった。 「この仕事をやめるつもりはないよ」  子が親の背中を見て育つように、俺は獅子雄さんの背中を追いかけてここまできたのだ。切っても切れない縁なんてものが本当にこの世に存在するのなら、俺と獅子雄さんがそうであって欲しいと願うほど。 「俺はこの仕事に誇りを持ってる。俺にしか出来ないことだって思ってる。例えそれが驕りだったとしても、それでも俺は、この仕事を手放すつもりはないよ」  初めて握ったナイフは重かった。初めて殺し屋として切った肉は記憶していたよりも硬かくて、そしていくらか清潔にも思えた。任務を成功させても獅子雄さんは褒めてくれなかった。この仕事の意味と重さを知るべきだと何度も口酸っぱく教えられた。きっと俺は今日はじめて、その本質を思い知っただろう。それでも俺は、自らが選んだ道を進むほかない。どんなに世間の倫理に背いても、多くを失っても、獅子雄さんが差し伸べた手を取ったのは他の誰でもない、俺なのだ。 「………あの男のことは、どうする」  思わず幻聴かと疑ってしまうほど、それはあの頃と同じ優しい響きで驚いた。 「雛菊のこと?」  そうだ、と獅子雄さんは頷く。 「………どうするも何も、もうどうにもならない。雛菊はもう此処へは来ない」 「諦めはついたか」 「…………………」  分からない。忘れなければと頭では思っていても、心は中々そうはいかない。しかし、もしも仕事と雛菊、どちらかひとつを選べと言われたら、俺は間違いなく仕事を選んでいるだろう。雛菊を選んだところで、俺が人を殺したという事実は消えない。 「忘れることはきっとないんだろうけど、でもきっと、時間が経てば大丈夫」 「そうか……………」  獅子雄さんは持っていたミネラルウォーターのボトルを勢いよく傾けると、ひと息に半分ほどを飲み干し、余りを俺に押し付け背広の襟を正し立ち上がった。 「それならさっさと準備しろ。仕事だ、遅れるな」  開けたビールをまだ一口しか飲んでいないのに。そんな独り言を無視して、獅子雄さんはハンガーラックに掛かっていた黒のパーカーを引っ手繰り俺に投げつけ、腕時計を確認すると鋭い視線を俺に移した。 「五秒待つ」  冷えた声色に間髪入れず、はい、と短く返事をした。ビールなんて、また買えばいい。

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