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第60話

「菊、どうしたの」  突然部屋を訪れた私の顔を見るなり、弟の榊は眉を顰めた。 「この間より酷い顔」  榊は私の容姿が歪むことに関してとても五月蠅い。綺麗なものは綺麗であるべきだと彼は言う。花が枯れ落ち腐ることを、まるで知らないみたいだ。  快く迎え入れてくれた榊は私をベッドに座らせると、自らも隣に腰かけ身を乗り出して距離を詰めた。 「なにがあったの」  心配そうに細められた瞳を見て途方に暮れた。話したくても、話せないことばかり。何をどう伝えていいのか、話したところで問題は解決するのか、そもそも信じて貰えるとも到底思えない。何から話すべきか、私は何に対して悩んでいるのかも分からない。彼の生い立ち、彼の生業、そして獅子雄の存在。それら全てがあまりに怒涛の勢いで襲い来るから、どれも大きく大変なものに感じるし、ともすれば彼と私の今までの関係を前にすれば全てがちっぽけにも思えた。 「菊は今までどこに居たの? 学校? 自宅?」  いいえ、と首を横に振る。 「じゃあ、どこにいたの」 「……………蛇岐の部屋に」 「タキ? タキって誰、友達?」  いいえ、私はお決まりのようにそう答える。 「友達じゃないならなに」  きっと榊は苛立っているだろう。もともと気の長い男ではない。分かり切った答えを待つのは無駄な時間だと榊は言う。それでもひとつひとつ丁寧に質問を並べ、答えのある問いにすら言葉に詰まる私を根気強く待っている。それでも私は口を開けない。榊が私の目の前に提示した質問こそ、私と蛇岐の核心に触れるものなのだ。  床を見つめて黙りこくったままの私に、今更だけどタキって男だよね、名前的に、と榊はおかしなタイミングで断りを入れた。 「その男とまさか付き合ってるなんて言わないよね、まさか遊ばれたなんてことは、絶対にないよね」  榊はこちらを見ずに、苛立ちもどかしい様子で爪を噛んだ。いつもは大人しく無口な弟が饒舌になるときは、怒っていることが殆どだ。例にもれず今だってそうだろう。怒りに顔を歪める可愛い弟を、私のせいで苛立つ弟を、私は宥めることもできずにじっとしているしかなかった。もう何もかも、投げ出してしまいたい。なかったことにしてしまいたい。  そう願っているのは確かなのに、私は初めて蛇岐と身体を交えた夜のことを思い出していた。彼は大きな袋いっぱいに食べ物を買ってきた。互いの好みを知らないから、食べきれないほどの量を買う必要があったのだ。私を抱くとき、彼は節立った指にはめられた重く冷たい指輪を必ず外した。指を絡めあうとき、骨が軋むほど強く握り合うから、分厚いリングをはめたままでは私の指が痛んでしまう。彼はおとなしく私を待った。私の気持ちを察して、準備が整うまで待って、そして求めたものには応えてくれた。それらは間違いなく彼の優しさで、私の信じていた愛情だった。  そんなことが走馬灯のように思い出されて、涙の雫をおとしながら幸福であたたかな日々に微笑むと、榊は大きな口を開けて、ため息と共に吐き出すように「やめてよ、雛菊」と唇を震わせた。 「蛇岐を裏切ってしまった」  そう言葉にして、私はまた泣いた。三十を目前にした大人の男が、ひとりの男を巡ってこんなにも取り乱してしまうなんて、端から見ればなんとおかしな光景だろう。けれど、私の中の彼との思い出すべてが美しく彩られていることについに気付いて、途方もなく、惨憺たる気持ちを抱えた。  彼が何者であるかを知りながら、彼が今まで、そしてこれからも続けていくであろうことを知っていながら、それでも私は彼を眩しく美しく思うし、彼と過ごした時間はすべて煌びやかに縁どられ、鮮やかに飾り立てられ、過去の自分とそしてそれを思い出す今の自分が、確かに幸せだった日々を、それが刹那のような時間であったとしても手放したくないと叫んでいる。彼を受け入れられなかったくせに、獅子雄に与えられたチャンスを最悪な形で棒に振ったにも関わらず、彼との距離が遠くなればなるほど会いたい。もう一度抱き締めて、ベッドの中でもみくちゃになって、彼のマメだらけで硬くざらついた指先の優しさや、暗闇の中で鈍く光る大きなピアス、濡れた息遣いで私の名を囁く声の温度、それらすべてをひとり占めにしてしまいたい。会いたい、会いたい会いたい会いたい。今すぐに、会いたくて堪らない。  腰を折り背中を丸め、奥歯をきつく噛み締めて泣いた。私は本当に愚かで、成し遂げたかったこと、成し遂げるべきことを何ひとつ出来ずに彼を傷つけた。私はただ、彼に好きだと伝えたかっただけなのに。だけどきっともう、どうすることもできない。彼は今まさに「仕事」をしているのだろうし、好きだという私の心ひとつですべて解決できるようなものでないことは痛いほど分かっている。  見てみぬふりもできない、受け入れることもできない、諦めるなんて出来やしない。残された道はどこにあるのだろう。私も彼も、身も心もぼろぼろに擦り切れて、かつての時間が私たちを酷く傷つける。出会ったことすら後悔してしまう。けれどもう、どうすることも出来ない。

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