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第59話

「………綺麗な顔が台無しだ」  部屋の扉を後ろ手に閉めたまましばらく動けず、乾いた風に吹かれながら佇んだ。見覚えのある艶のある焦げ茶色の革靴が、俯いたままの視界の端に映り込む。思わず嘲笑が漏れた。それが誰だか、顔を上げずとも分かった。 「私を笑いに来たんですか、獅子雄さん………」 「いや、仕事で蛇岐を迎えに来ただけだ。……………しかしそうか、おまえは、おまえの世界を選んだか」 「あなたの思い描いたとおりの結末でしたか」 「それほどおまえたちに興味はない」  獅子雄は眉ひとつ動かさず、飄々とそう言ってのけた。  蛇岐の感動的で汚らわしい昔話では、獅子雄はまるで聖人みたいに尊ばれていた。蛇岐を引き取り、育てて、仕事まで与えた。私だってきっとこの男に感謝すべきだ。この男がいなければ蛇岐とは巡り合えていなかった筈なのだから。それだけを聞けばなんと美しい話だろう。入り組んだ事情さえ知らなければ、私は獅子雄になんの疑念も抱かず感謝できていたのだろう。けれどもう、駄目なのだ。すべてが限界を迎えていた。蛇岐と私の関係も、これまで過ごした日々も、私も気持ちひとつひとつも、何もかもが疾うに限界も迎えていたのだ。生ぬるい涙が頬を伝い、熱を持ってひりついた喉を震わせて叫んだ。 「人殺し」  そうしてなぜかしら、自分自身ですら聞いたことのない妙な笑い声が漏れた。とてもとてもおかしかった。留まることのない笑みに肩を揺らし、上半身は前方へ傾いた。こんなにもおかしな気持ちなのに、胸は痛くて、堪らず着ていたシャツの胸元を握り締めた。喉が渇いた。 「人殺し」  二度目は呟いたつもりだったのに、それはまるで断末魔の叫びのように、古く錆び付いた階段の鉄骨に大きく反響した。  叫べば尚苦しくて、肩を上下させながら何とか呼吸を繰り返した。涙は次々に零れて、怒りや悲しみや、蛇岐へ対しての気持ちとか、そういったもの全部の行き場がなくなって、溢れかえってしまった感情を、私は子供のように、ただただ目の前に佇む獅子雄に乱暴に投げつけるしかできなかった。獅子雄は表情を変えなかった。しかし強い眼差しの中に憐れみの色を浮かべていて、私は尚更悲しくて悔しくて苦しくなった。 「蛇岐にも同じことを言ったのか」  獅子雄の声は掠れていた。確かな憐憫を漂わせていた。それが私に対してのものなのか、蛇岐へ向けたものかは分からなかった。 「可哀想な男だ」  可哀想だ、獅子雄は二度そう続けた。 「用が済んだなら帰れ。………もう二度と来るな」  その声に優しさすら滲ませて、そして獅子雄は穏やかに(まるで気遣うみたいに)私の肩に手をやり、蛇岐の部屋へ続くドアを開いた。きっと私の凄惨な叫びは、彼の耳にも届いてしまっただろう。薄く開かれた扉の隙間から、シルバーリングの光る大きな手が伸びて(節のしっかりしたその手は、いつも私を優しく抱いていた手だ)、獅子雄の手首を掴んで引き寄せた。  まるでスローモーションのようだった。獅子雄はそのまま蛇岐の手によって室内へ吸い込まれ、その扉が閉まる直前、あの蛇のような瞳が一瞬だけ私を捉えた。やけにきらきらと輝いて見えるそれに、ああ彼は泣いているのかと、すっかり静まり返ってしまった脳内に、それだけがぽっかりと浮かんだ。目の前で扉は閉まり、向こう側からどすんと、音の割りにはおよそ柔らかい衝撃と、大人の男のくぐもったすすり泣きが鼓膜を濡らした。泣かせてしまったのは私、そんな彼を誰よりも理解してあげられるのは、きっと、獅子雄、ただひとりきり。

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