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第58話

 狭く重苦しい静寂の室内に、甲高い電子音が響いた。聞きなれた音、ベッドの上に放られたままの携帯電話を彼は引っ手繰るようにして掴み、だけど声色は冷静に応対した。はい、はい、と短い返事をする。最後に、すぐに準備します、と言って通話を切ると、彼は静かに私を振り返った。額は赤く血を滲ませている。 「早く出て行け、仕事だ」  彼は冷え切った瞳で私を見下ろすと、ベッドに座る私の肩を、まるで邪魔だとでも言うように押しのけ、その足元から埃を被った木箱を引き摺り出した。私は瞬時に目を逸らす。見てはいけないものだ。蛇岐から、温度の失われた嘲笑が漏れた。 「ヒナちゃんさあ」  ひなちゃん、だなんて。  彼に名を呼ばれるときの、あの確かなぬくもりと甘い響きが大好きだった。名前を紡がれると幸せだった。己の存在すべてが、価値のあるものに思えたのに。ひなちゃん、だなんて。彼はもう私の名すら呼んでくれない。侮蔑を孕んだその声に、躰は一気に冷えていく。 「まだ分からない? 鬱陶しくて邪魔だから、さっさと出てけって言ってんの」  彼は笑っている。感情の欠落した笑顔だ。いつも私以外の人の前で見せる、あの気味の悪い笑顔。そうじゃなかったのに。私にだけは、そうじゃなかったのに。  動けない私の腕をきつく掴み上げ、乱暴にベッドから引き摺り下ろされた。骨が軋むほどの強い力、遠慮も優しさもない、まるでゴミになった空き缶を投げるみたいに、私を床に投げ捨てた。 「………仕事なんだよ、出て行け」  そう言い捨てられる。掴まれた二の腕が熱くて痛かった。  彼は着ていた黒のタンクトップの上から使い込まれた革のホルスターを肩にかけ、大ぶりのナイフを左右に一振りずつ仕舞った。更にその上から黒のパーカーを羽織る。私を訪れるとき、彼はいつもこの格好だった。  床に蹲りながら、両手で顔を覆う。見たくなかった。見たくないもの、知りたくないことばかりだ。幸せだった日々は、跡形もなく消え去ってしまった。こんなはずじゃなかったのに。辛い、悲しい、寂しい、恐い。私は、彼が、恐い。 「出て行くか、俺に殺されるか………今すぐ選べ」  風を切る鋭い音が耳に響く。これを聞くのは今日で二度目だ。顔を覆う指の隙間から、淡い光を反射する刃が見えた。 「蛇岐は………私を殺せるの…………」 「仕事の邪魔をするなら」  絶望など、既に通り過ぎてしまったのかも知れない。力の入らない足で立ち上がり、ふらつく足取りで部屋を出た。扉が閉まる直前、私の背中に「俺なら殺される方を選ぶのに」と呟かれた彼の声に気付いたけれど、聞こえない振りをした。

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