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第57話

 もうどうしたらいいのか、自分の感情も最善策も、何ひとつ分からなかった。考えられなかった。こんな話を聞いてしまって、彼と今までどおりに過ごすことはきっとできないだろう。なぜなら私を抱くこの手で、彼は既に幾人もの人々を殺してきてしまったのだから。例え今、安易に彼と人生を共にする決断をしたところで、きっとそれは長くは続かない。「仕事」から帰った彼を、私はどう迎え入れたら良いのだろう。私は彼に、恐怖を抱かないと言い切れるだろうか。言えるはずもない。  黙り込む私に対して蛇岐は、雛菊、と呼んだ。優しく涼しげで、凛とした声だ。顔を上げる。彼は清々しい表情をしていた。ああ、この人はもう、決めたのか、決断を下したのだ。妙にあたたかで、迷いも消えた瞳をした彼は、もうここで立ち止まるのをやめたのだ。 「雛菊」  彼に名を呼ばれ、こんなにも寂しく凍える想いを抱えるのは初めてだった。理解してしまった、彼は私を置いていく。 「恐い思いをさせて、嫌な話を聞かせてごめん。雛菊に会えて嬉しかった」  そして私を抱き締めた。 「今までありがとう。俺はこっちで生きていく」  彼の匂いと体温が、急速に離れていく。物理的な話をしているのではない。彼自身は目の前にいるのに、だけど、もう遠い。追いつかないほど、もう私の手には届かないほど、遠い。それはきっと、私の選んだ未来。「人殺し」の彼と共にいられないのなら、それを彼にどのように伝えれば正しいのかが分からないのなら、彼のこの決断を受け入れることだけが唯一私に出来得ることで、それなのに私は長い人生の中の刹那のような日々を、最後まで私を気遣ってくれる彼を、手放せずにいる。手放したくないと、必死にもがいている。 「もう行って、雛菊。もうここへ戻って来ては駄目だ」  反射的に首を横に振った。私から離れようとする彼の腕を掴んだ。言いたいことも分からないのに、私は年甲斐もなく彼に縋りついて引き止めた。私は何をしにここまで来たのか。目的は何だったのか、こうなることは覚悟していて、それでも彼に会うためだけにやってきた。そうだ、彼に会うために、どうしても彼に会いたくて、震える足を叱咤して私はここまでやって来たのだ。やって来たのに。  彼は自身の腕から私の手を優しく離した。そして大きな両手で私の手を握り締め、泣き出しそうに顔を歪めて、それが笑顔ともわからないような悲しげな笑みを浮かべた。 「雛菊、俺が恐い?」  脳天から真っすぐ、身体を真っ二つに裂かれてしまったような衝撃が私を貫いた。意識は一瞬にして真っ白で空っぽになり、私は身体を大きく震わせた。無意識だった身体の震えはそれを自覚した途端、大袈裟とも思えるほどに酷くなり、感じまいと努めていたこの部屋の血生臭さや息苦しさ、そして彼の「異常さ」が私の恐怖を更に掻き立てた。この突き抜けた異常さを、それこそが彼の魅力だと感じていたのに。それが今、私を苦しめる。私と彼を苦しめる。言い訳のしようがないほど、私の肉体と精神が彼を拒否していた。彼の存在そのものを、受け入れられなくなっていた。私の手を握る彼の両手は、今まで何度も私を抱いた彼の手は、幾人もの人々の血で汚れている。意図せず、か弱い悲鳴が喉を掠めた。強い吐き気がした。彼は人を殺しているのだ。それは私の世界とはあまりにもかけ離れていて、どんな方法を駆使しても近づくことなんて出来やしない。 「………もう行け、雛菊。頼む」  私の手から、彼の両手が離れていく。けれど私は動けなかった。彼を離したくないと確かに思っていた筈なのに恐怖はいつまで経っても治まらず、それどころか時間が経つに連れ増していくばかりで、彼のいる世界に飛び込む勇気も、彼をこちらの世界に引き戻すだけの力もないくせに。なす術は何もなく、私は身を震わせたまま呆然としていた。息はあがり、瞬きひとつできずにいる。瞳からはいくつもの雫が伝った。彼は苛々したように舌打ちをして立ち上がり、そしてコンクリートの冷たい壁を蹴った。そんなものを蹴ると彼の脚が傷付いてしまう、そんなことを思った。 「頼むよ、雛菊………出て行ってくれ、頼むから………!」  荒々しく、そして悲痛な叫びだった。彼は頭を掻きむしり壁に額を打ち付けて、喰いしばった歯の隙間から猛獣のような唸り声を漏らした。  私はなぜ、ここへ来てしまったのだろう。獅子雄はこうなることを分かっていて私をここへ導いたのだろうか。彼への未練を断ち切らせる為に、住んでいる世界が違うと知らしめる為に。

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