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第56話

 ○ 月崎雛菊  彼が話している間、私はろくに相槌もせず黙っていた。なんと言葉を返してやるべきか分からず、話しの途中から、私は故意に聞くのをやめた。せっかく彼が話してくれているのに、私はまるで真剣に聞いているようなふりをしてしまった。しかしそんな私を、きっと誰も(蛇岐を含め、誰ひとりとして)責められない。彼が自らの仕事について頑なに口を閉ざし続けたのも当然のことだ。まさか、言えるはずもない。  彼は人を殺している。仕事と称して今も尚、殺し続けているのだ。信じがたいことに。 「それからずっと、この仕事を続けてる。今回、あの高校に編入したのだってそう。教室と屋上から、標的の家と職場がよく見える。朝から晩まで学校にいたら、怪しまれずに相手の動向を監視できるだろ」  その為に彼(正確に言えば獅子雄だろう)は、校長に大金を握らせたのだ。杜撰な身上書、狼狽する校長、突然決まった編入、自らのことにおいて頑なに口を閉ざす彼。私の中で、すべての点がひとつの線で繋がった気がした。そして尚も、本能は考えることを拒んでいる。 「引いた?」  酷い顔で彼は嗤う。はいもいいえも言えなかった。平凡な家庭に生まれ平凡な人生を送って来た私には、話しを聞いただけでは到底理解し得ないことばかりで、彼を励ますことも受け入れることも、この狼狽を取り繕う言葉ひとつさえも出てこずに、ただただ己を保つだけで精一杯だった。 「仕事のことも獅子雄さんのことも、今話したとおり。獅子雄さんとはそんな色気のある関係じゃないけど、確かに好きだった時期はあった」  私は何を期待していたのか彼のその発言に、少なからずショックを受けてしまっている。愚かなことに。獅子雄のように彼を受け入れる度量などないくせに、彼の話を聞いて尚、彼にとっての獅子雄という存在の大きさを知っても尚、彼が愛しているのは私だけだと厚かましくもそんなことをまだ信じていたのかも知れない。 「俺には家族がいないから、それがどの意味で好きだったのかは分からないけど、でも今思えば、雛菊を想うものとは少し違ってたかも知れない」  彼は言葉を選んでいるのか、目を伏せながらしばらく言葉を詰まらせた。 「……………置いて行かれたくなかったんだ。母親がそうしたように、もう二度とあんな思いはしたくないから、たぶん、獅子雄さんを引き止めたかっただけかもしれない」  だってその中に獅子雄さんへの気遣いなんてひとつもなかったから、と蛇岐は続けた。そして更に、本当はこんなこと言いたくないんだよ、とわざわざ前置きをして照れ臭そうに笑った。 「できるなら、俺だけを見ていて欲しかった、雛菊」  束の間の沈黙が訪れる。彼は長く息を吐き、天井を仰いだ。 「あの家で待っていて欲しかったよ。………もちろん、もとはと言えば俺が悪いけど」 「蛇岐、ちがう」  私が家を空けてしまったあの日(彼が私にナイフを振り上げたあの日)、あなたの想像しているようなことはなかったのだと否定しようとしたけれど、彼がそれを静かに制した。私にはもう、弁明の余地すら与えられていない。 「いいんだ、雛菊」  そうしながら、次第に蛇岐の表情がほどけていくのを感じた。私の知っている優しい蛇岐なのに、私はそれに寒気すら感じた。待って、と言葉を紡いだはずなのに、それは輪郭を持たず空虚に消えて、そして再び言葉を紡ぐことはできなかった。 「雛菊、俺は人を殺して生きてる。今までそういう風に生きてきた。だから今更、雛菊が暮らしているような明るい世界に戻るのは無理だし、戻ろうとすら思わない。自分が何者かすら分からなかった俺を人間たらしめたのは、獅子雄さんと、この仕事のおかげだから。だからこの仕事を俺は、俺が死ぬまで続ける」  蛇岐の瞳に迷いはなかった。この男はどこまでも突き抜けた人だ。自分が何者であるのかを、今や完全に理解しているのだろう、私と違って。私は、迷っている。分からないでいる。これからのことも、自分の気持ちも、こんなとき自らがどうあるべきかも。私はいつまでも逃げ惑い、迷い、そしてまた立ち止まっている。これまで聞いた蛇岐の話はあまりに現実離れし過ぎていて、それでもあの夜の狂気じみた彼を思うとそれが嘘だとは到底思えなかった。

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