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第55話

 けれど獅子雄は、そんな俺とは裏腹に表情を曇らせて寂し気に眉を寄せ、憐れみまでをも滲ませると俺の手を優しく握り返した。 「おまえを助けに来たんじゃない。おまえの母親と、相手の男を、殺しに来たんだ」  ひとつひとつを言い聞かせるように、獅子雄は低く落ち着いた声でそう囁いた。俺は首を横に振った。 「俺が言ってることと、何が違う? 俺は早くあんなところから逃げ出したかった。それを獅子雄が手伝ってくれた」 「違う」 「違わない」 「俺たちが来なくても、きっとおまえはあの女を殺していた」 「でも結果的に殺したのはあんただ」 「落ち着け、話しを聞け」 「どうして、そうだって言ってくれないんだよ!」  獅子雄の手を握り締めたままの指先に強く力を込めて爪を立てた。獅子雄は眉間の皺を深くし、小さく頬を痙攣させた。 「お願いだから、そうだって言って。否定しないで拒絶しないで。俺を助けに来てくれたんだろ、そうじゃなきゃ………」  そうじゃなきゃ。  獅子雄の手の甲にできた爪痕には血が滲んでいたけれど、獅子雄も俺の手を強く握ったまま離さなかった。その手に縋りついた。縋り付くしかなかった。もうそれ以外に、生きていく術はない。この男が俺を救ってくれたのだと信じなければ、こんなにも広い外の世界で、ひとりぼっちでは生きてなどいけない。 「お願い、俺を見捨てないで。頼むから、見捨てるなよ」  獅子雄は険しい表情のまま黙り込み、手を握り合ったままついに一言も話さずに、俺はいつの間にか深い眠りに落ちていた。  ふわふわと、雲に包まれて浮いているみたいだった。心地よい温度と、清潔な匂い、身体中を真新しい血液が規則正しく循環している。薄く目を開けると、大きな窓から差し込む目映い朝陽に驚いた。こんなに気持ちの良い目覚めは生まれて初めてだ。 「起きたか」  声のする方を振り返ると昨日同様涼しい表情をした獅子雄が立っていて、未だ寝ぼけまなこの俺に洋服を投げると「今すぐ着替えろ」と顎をしゃくった。状況も把握できないまま、袖も裾も余っていた服を急いで脱いで手渡された服に着替えると、それは上下ともに俺の身体にぴったりで思わず目をむいた。 「蛇岐」  たき、と発音されたそれに顔をあげて応えると、獅子雄さんは「呼び名がないと困る」と言った。そして獅子雄さんは背後に隠し持っていたナイフ(刃の長さは手首から肘まであった)の柄を俺に差し出した。  それを拒む理由はなかった。見たこともない大ぶりのナイフを、恐いとも思わなかった。このナイフで自らが何をすべきかは聞かずとも分かった。しかしそれに関しても、不安も恐怖も、違和感なんて微塵もありはしなかった。既に殺人は犯している。けれどそれで自らを責めることはなかった。清々しい気持ちさえした。自らが犯してしまった行為を肯定された気がした。俺は迷わずナイフを握った。昨夜の家庭用の包丁なんかよりずっと重たくて、シースに収められていた刃を覗けば、柔らかな朝日を反射させて美しく輝いていた。 「最低限の読み書きは教える。―――人の殺し方も」  獅子雄はわずかに顔を歪めたけれど、俺はどうしてか、経験したことのない歓びに満たされていた。シースから引き抜いて、刃先を窓に向け朝陽にかざした。その美しい煌めきに恍惚とした気持ちを抱え獅子雄を窺い、つまらなそうな表情を崩さないこの男に、むず痒くなるような、得も言われぬ喜びに全身が打ち震えた。古くて汚いアパートの、四角く区切られた窓から覗く世界とはまるで違う、こんなにも広い世界で、生きていくことを許されたのだ。

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