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第54話

「おまえの着替えはあるか」 「ない、知らない」  着ている服は全て母親のそれまでの男が忘れて行ったものだ。今着ている血まみれのものだってそうだった。 「そうか、怪我はないか」 「ない」 「そうか」  獅子雄は再びため息を吐いた。どうするの、と細身の男の声がする。 「おまえを、ここへは置いておけない」  すべて見てしまったおまえを、低くそう囁いた獅子雄の言葉に、期待に胸が高鳴った。細身の男は素早く俺を一瞥すると、そうだね、と頷き「獅子雄くん、君の指示に従うよ」と言った。 獅子雄は血まみれの俺の顔を自身の背広の袖口で乱暴に拭い、乾きかけた血をおとした。 「お腹すいた」  空っぽの胃はきりきりと痛み、喉もからからに渇いていた。獅子雄は驚いたように目を丸くそて言葉を詰まらせると、自身の着ていた背広を脱いで俺の肩にかけた。 「靴は」 「ない」 「だろうな」  訊かれるままに答えると獅子雄は俺に背を向けて膝をつき、これが何を意味しているのか分からずに戸惑えば、細身の男が「乗りなよ」と俺の手を取り、導かれるまま獅子雄の背に身体を預けて首に手を回した。広い背中に負われて、経験したことのない、言いようのない感情がじわじわと込み上げた。こんなに他人と密着したのは生まれて初めてだ。あたたかい、熱いくらいだ。熱くて柔らかで大きい、獅子雄の背中は離れがたいぬくもりだった。  そのまま連れられた先は、広いけれど慎ましやかな屋敷だった。ここで獅子雄は使用人たちと暮らしているという。身体の隅々までを入念に洗われ(もうどれくらいぶりの入浴かもわからない)真新しいぱりぱりの服を着せられて、たくさんの料理が並ぶテーブルにつき、生まれて初めて満腹というものを味わった。食べつけないものばかりを慌ててかき込み腹を壊したけれど、思い描いた幸福がすべて手の中にあるなんて、数時間前の自分からはとても想像できない歓びだった。  その夜、獅子雄はわざわざ手触りの優しいベッドまでしつらえた。部屋の大きな明かりを消され枕元に置かれた柔らかなオレンジの間接照明だけを点けて、獅子雄はベッドに腰かけた。薄明りの中、伏し目がちに俺を見る獅子雄はまさに聖母そのものだった。あの日の確かな胸の高鳴りは今も忘れられない。獅子雄は静かに、これからどうする、と俺に問いかけて、俺は、わからない、と答えた。 「何も考えられない」  ぼんやりと窓の外の景色を眺めた。忌々しいあの家の小窓から見ていたものと違って、夜であるにも関わらずどうしてか明るく思えて、覚めない悪夢のような生活からついに解放されたのだと実感した。 「あんたは俺を助けにきたの?」 「なんだと?」  獅子雄は器用に片眉を上げる。俺は窓の外に目を向けたまま、何故だか不思議と気分は高揚し鼻息荒く興奮した。 「あんたが、俺をあいつらから助けてくれた。気持ち悪い全部から、あんたが助けてくれた」  悪いことをすれば裁かれる、それが当然のはずなのに、今まで俺に酷い仕打ちをしてきた母と男たちをどうして世間は裁いてくれなかったのか。世間が裁いてくれないから、俺が自ら裁いてやった。あいつらが死ぬのは当然の報いだ。そういう風に、獅子雄が、神が裁いてくれたのだ。  掃除もされずにざらついた床、腐った台所、コバエの飛ぶ冷蔵庫、湿った畳と布団、黄ばんだ便器とかびて黒ずんだ風呂場、鏡台に並ぶ悪臭を放つ香水、もったりと落ち込んだ衣の擦れる音、濡れた吐息、金切り声にも似た女の嬌声、生臭い男と女、一度も満たされることのなかった腹。たった数時間でそれら全てを取り払って、満たしてくれた。だって分かったのだ、この男を一目見た時から気付いていた。この男は俺の救世主、そうでなければ無償の愛と喜びを与えてくれる聖母だ。神の加護があったのだ。  咄嗟に獅子雄の手を掴んだ。冷えたその手は、けれど俺にとっては熱いくらいだった。心臓は激しく波打ち、その鼓動は鼓膜に五月蠅く響いた。頭の先から爪先まで嵐の海みたいに激しく血が通った。俺はやっと今日、人として認められたのだ。

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