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第53話

 それは、蒸し暑い梅雨の頃だったと記憶している。夏を目前に控えた霧雨の降る午後。エアコンのない部屋でワイドショーを流していたら、母とのセックスを終えた男が隣の部屋からやってきて突然俺を殴りつけた。床に倒れ込んだところを更に馬乗りになり、男は何度も何度も拳を振るう。ぎらぎらとした脂を額に貼り付けて、焦点の合わない目はぐるぐると泳いで奇妙な唸り声を漏らしながら口の端に泡を溜めていた。こんな汚い男のどこに、あの母親は惹かれたのか。 (ああ、いやだな………)  心の中で小さく呟く。抵抗はしなかった。抗ってしまえばこの行為は長く続けられるし、もっと手酷くやられてしまうのを知っていたからだ。ふと視線を横に投げれば、開かれた襖の奥で母親が煙草を吹かしながら涼し気な顔でこちらを見ていた。それを最後にこめかみに拳を入れられて、意識はそこでぶつりと途切れた。  目覚めた頃には、窓の外は既に深い闇に包まれていた。顔の皮膚が妙に突っ張って、鼻と口は鉄の匂いがしている。すぐ傍では男の荒い息遣いと母親の汚い喘ぎ声。俺はゆっくりと身体を起こした。腹が減っていた。身体が大きく成長したこの頃には、もう残飯だけでは足りなくなっていた。何か腹に入れなければならない。けれど食べられるものは、もう何もない。  暗闇に目が慣れてからなるべく音を立てないよう黙って台所へ向かい、流し台の下で眠っている包丁を取り出し右手にしっかりと握って部屋へ戻った。中途半端に開いた襖を全開にしても、男と母は俺を無視してセックスを続けた。いつものことだ。汗と精液のすえた匂いが充満した暗闇の中で、男が顔を上げ「おまえも混ざるか」と下卑た笑みを浮かべ、その下で母親が喉に纏わりつくような(ヤモリの鳴き声にそっくりだった)笑い声を漏らした。  誰に言い訳するでもないが、気が触れたのでないことは確かだ。それは間違いなく意図して行ったものだった。握った包丁を振り上げて、こちらに向いている男の顔面にひと思いに振り下ろした。刃がどこに触れたのか定かではないが「刺さった」感触は確かにあった。男は潰れた蛙のような声を上げ、数秒遅れて母が絶叫した。倒れ込んで蹲る男を何度も刺した。ぐちゃぐちゃと粘着質な音がして、触れている部分はどこもかしこも生温い血で滑っていた。振り下ろす刃全てが命中した訳ではなかったけれど、何度か刺していく内に男は全身を痙攣させてやがて動かなくなった。男の息が途絶えたのを確認して、部屋中を逃げ惑う母に向き直ると、それと同時にガチャリと不自然に冷たい音が耳に届いた。  玄関だ。そこへ視線を投げかけると、ゆっくり静かに扉が開き、薄暗闇を誰かがこちらへ近づいて来るのが分かった。暗闇に浮かぶシルエットの大きさから侵入者はふたりの男だと推測する。母は助かったと言わんばかりに侵入者の足元へ這いずり、いつも聞かされていたあの男へ媚びた声色で「助けて、殺される」と泣き縋った。俺はその場に佇んだまま動かずに、黙ってその様子を見守っていた。とにかく腹が減っていた。  先頭に立つ男が手元を動かしたかと思うと、次の瞬間には「げえ」とも「ぐう」とも分からない、聞いたことのない母の呻き声が聞こえ、そして母は男の足元に蹲ったまま動かなくなった。 男たちはそれぞれに動き始める。片方が「灯りをつけるよ」と誰にともなく断った。壁を探り、それを探し当てると室内は一気に明るくなり、その眩しさに思わず目をしばたいた。何度かそうしてから再び恐る恐る(断っておくが侵入者を恐れたのではない。光が目に沁みたのだ)目を開くと、一番はじめに視界に飛び込んできたのは黒髪の美しい男だった。  身体中の血液が一気に沸き立ち、ああ、そうか、と心の中で歓喜した。あの日テレビで見た光景が蘇る。神のご加護があらんことを。目の前のこの美しい男は、きっとあの日見たマリア像、俺を救いに来た、聖母マリアだ。眩しさに目を細め、感じたことのない多幸感に包まれて、その足元に転がる母の死体なんて視界の端にも入らなかった。 「………子供がいたんだね」  黒髪の男の背後で細身の男が呟いた。 「ここにもうひとり男がいるだろう」  黒髪の男が俺に問いかける。穏やかな、それでも威厳を感じさせる声だった。 「………いる。奥の部屋で死んでる、俺が殺した」  答えれば、細身の男は「確認してくる」と土足のまま部屋へ上がり込み足早に奥へ向かった。黒髪の男は痛々しく瞳を揺らし、そしてすぐに無表情に戻ってしまった。俺はそれを、勿体ないと思った。 「おまえはこの女の子供か」 「そうだと思う」 「名前は」 「わからない」 「………年はいくつだ」 「知らない」  そうか、と男は呟く。 「外に出たことはあるか」 「ない」  男は浅くため息をついた。  「獅子雄くん」奥の部屋から細身の男が呼ぶ。「獅子雄くん」は返事をするとそのまま奥へと消えて行き、数分もしないうちにすぐにこちらへ戻ると母親の死体を引き摺り廊下の端へ寄せ、半開きになった目を閉じさせて両手を合わせた。そして俺に向き直り、姿勢を低くして視線を重ねた。

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