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10年に至るまでの健やかな日々編 6 皺
仕事が終わるのが、今日は井上さんの方が早くて、でも、俺の終わる時間までまっていてくれた。
「ご、ごめんっ」
「大丈夫よ」
送迎バス乗り場にある端の欠けたベンチに座っていた井上さんはニコッと笑うと、よっこらしょって呟きながら腰を上げた。
「待ったよね。上がろうと思ったら、新しい依頼が来ててさ。井上さんの後の人と一緒に運んでたんだ。数が凄くて」
「大丈夫。待ってる人がいるわけでもないし、用事もないしね」
「でも、退屈だったでしょ?」
「まさか」
そして、また朗らかに笑って、そこにちょうどやってきた送迎バスに二人で乗り込んだ。バスは三十分起きに出発してる。大きな物流センターで、二十四時間稼働のところだからバスも二十四時間稼働。乗り降りする人も結構いる。
そのバスに乗って駅まで行くと、そこから電車で十五分。降りたことのない駅は小さくて、ホームから見える線路沿いの商店街は小さな飲食店が小さな箱みたいに並んでいた。そんな駅から今度は歩いて五分くらい。
「あ、えっと、お邪魔、します」
「どうぞどうぞ」
基本的に一誠はうちにいるからさ。
「さ、そしたらぱぱっと作っちゃいましょう」
「あ、うん。よ、よろしくお願いします」
御馳走、作りたくても、バレちゃうから。
できたら、驚かせたくて。
「そしたらまずは野菜を切ってくわよ」
「は、はい」
どうしようかなって考えてたら、井上さんがキッチンを貸してくれた。
「あら、包丁、上手ね」
「……うん。セクサノイドだからね」
学習機能なら付いてるんだ。けっこうなんでも上手にこなせる。
「そうねぇ、でも、そうじゃなくてね」
「?」
「包丁とっても上手なのはきっと一誠さんの包丁捌きをたくさん見て覚えたんでしょう? それなら、それはセクサなんとかだからじゃなくて、トウ君だから覚えたことよ。人と同じ」
好きな人が仕事場に立つ姿をいつもいつも見ていたから覚えた包丁の使い方。その証拠にただその学習機能を使って覚えたのだとは思えないくらい、手慣れていて、日々の仕事で包丁を使っている人と同じ仕草だと井上さんが笑った。
「うん……そう、かも」
そして、俺も笑って、頷いた。
本当に簡単だった。
野菜とお肉をバターで軽く炒めて、そこに生クリームと牛乳を入れる。煮ながら塩とコンソメで味付けするだけ。お肉はなんでもいいんだって。鶏でも豚でも、なんでも入れてしまって構わない。余り物で充分。
あとはしばらく煮るだけ。
「えぇ? これ、井上さん? これ?」
「ちょっとトウ君、失礼じゃないの」
「あ、ゴメっ」
「冗談よ」
驚いて思わず指を差してしまったのは、井上さんの若い頃の写真だった。朝の海辺で微笑んでいる。
「海辺に住んでたのよ」
そう呟いて、写真の中と同じように眩しそうに目を細めた。でも写真の中のその綺麗な女の人の目尻には皺がなく、今、目の前にいる井上さんには目尻にたくさんの皺が刻まれている。
「この後だったわ。彼に出会ったのは」
「……」
「とってもかっこいい人だったのよ」
運命の番。もうそれは抗えない強烈な繋がりで理性も何もかもを引きちぎってしまえるような衝動にも似た感情。
「でも、きっとわかってたのよ……将来、こんなシワくちゃなおばさんになるって。だから、断られちゃったのねぇ」
「そんなことないよ」
「……」
「皺って、その人がよくする表情の顔が刻まれるんだって」
怒る人には眉と眉の間にシワができやすくて、への字の口ばかりをする人には口元の下に垂れ下がるようにシワが刻まれる。よく笑う人には。
「目尻のとこ、それからほっぺたと唇の間のとこ、そこがクシャってなるのはさ、井上さんがよく笑うって証拠だから」
「……」
「あとね、一誠もアルファなんだ。だから、本当は運命の番がいる」
理性も何もかもを引きちぎってしまえる強い本能。自分のものしたい、この人のものになりたい。どうしょうもなく止められない衝動。
「会ったこともあるんだ」
「……」
「でも、一誠は俺を、その選んだんだ。ポンコツのセクサノイドを」
もしも俺の皮膚が人間と同じだったら、眉間と口元の下の方に皺がたくさんあると思う。怒った顔とふてくされた顔ばかりしていたから。
「あのっ、あのさっ、そのアルファの人も何か本能とか衝動以上に何か井上さんじゃない人を選ぶ何かがあってさ。そんで全部が丸くまとまらなくて、けど、うなじ噛まずにいてくれたのって」
うなじを噛まれたら、番になれる。衝動が、本能が、熱がその行為で満たされるんだ。とても乱暴に強引に、無理やりにでも。でもそれをしなかった。
そんなに強烈な番でも、解消することってできる。ただし、アルファだけ。とても有能な遺伝子だから、複数にその遺伝子を残すために。けれどオメガにはその機能がなくて。
番を一方的に解消されたオメガの渇きは番になりたいと思う衝動や本能以上に苦しいって聞いたことがあるんだ。だから、その番になりたい衝動を抑え込んだその人は――。
「優しい人だったんじゃないかな。だからさ……」
「……」
「だから、井上さんにはたくさん笑う時にできる皺がある」
どんな理由なのかなんて分からないけれど、でも社長って言ってたから、何か会社のために、ほら、政略結婚とかさせられるところだった、とかね。それで、その結婚を破談にはできなくて、泣く泣く井上さんを遠ざけたのかもしれない。
そういうどうにもならない理由があったのかもしれない。
「俺は、羨ましいよ。皺とかさ、ちゃんと歳取れるの」
「……」
「俺は、歳取れないから、置いてけぼりだ」
「そんなことっ、」
その時、火が強かったのか、お鍋の中から溢れてしまった。
「あらあら」
「うわ、大丈夫かな」
「大丈夫よ。これは失敗を絶対にしない魔法の料理なの」
何を入れてもどんな順番でも構わない。ローリエだってなんだって、食材も選ばず何でもかんでも入れてしまえる。
「さて、できたみたいだから」
「え、もう?」
「早くて美味しいのよ」
そう言って、微笑みながら大きなタッパの中にそれを移してくれている。その目尻に皺があった。井上さんのよく笑う証がそこにある。
「さ、ほら、一誠さんが待ってるでしょう?」
「あ、うん」
「タッパは次の出勤の時でいいからね」
「う、うん」
鍋から移す時、優しいクリームの香りがした。ほかほかって気持ちが柔らかくなる匂い。
「あの、ありがとね」
「いいえ」
そのタッパをひっくり返さないように紙袋に入れてもらい、玄関で慌しく靴を書いていた。
「こちらこそ、ありがとうね」
「ううん。俺は何も」
「嬉しかったわ。話を聞いてもらえて」
帰ったら、すぐに用意しなくちゃ。仕事頑張ってる一誠はきっとお腹が空いてるだろうし。
「そうだ。それとね、トウ君。トウ君はね――」
玄関先で見送ってくれる井上さんの目尻にはやっぱり笑った時の皺が刻まれていた。
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