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10年に至るまでの健やかな日々編 5 故郷

 今朝、行ってきますって元気にうちを出た。  まだランチョンマットのことは一誠には内緒にしてる。昨日、帰りが遅かったねって心配されてしまったけれど、でも、この仕事をしてると遅くなることなんてしょっちゅうだから疑われずに済んだ。  言いたくて仕方がなかったけれど。  ねぇ、一誠に誕生日プレゼントを買ってきたんだよって、言いたくてたまらなかったけど。でも我慢したんだ。  それで、元気にいつも通りに「行ってきます」って仕事へ向かった。  うちからはケーキの焼ける良い匂いがしてた。毎朝、この匂いにお腹いっぱいになりながら仕事に来るんだ。この匂いは元気になるから。 「お、はよう。井上さん」  井上さんならきっと大丈夫。 「おはよう、トウ君」  きっと――。 「? あら、どうかしたの?」 「昨日、一誠のためにって誕生日プレゼントを買ったんだ」 「まぁ、いいじゃない」  井上さんは目尻をくしゃりとさせながら笑うと、自分のスタッフナンバーをパソコンに打ち込んだ。出勤したら、シフトの時間ちょうどに自分の番号をパソコンに打ち込む。数字をたくさんタイピングされているから、所々、キーボードの刻印が薄れて読めなくなっている、最先端なんかじゃない、古びたパソコン。  いつも通りの朝。 「お財布にしたの?」 「ううん。えっと、ランチョンマット。赤いので、それで白い苺が刺繍されてるんだ」 「まぁ、素敵」  でも、いつもと少し違う朝。 「あ、あのね、井上さん」 「?」  隠さず、暴かれたのでもなく、自分から自分のことを話そうと思った朝。 「俺ね」 「……」  きっとこの人なら大丈夫だからって思ったんだ。 「俺、セクサノイドなんだ。オメガ、タイプの」  けれど、やっぱり、そう打ち明けた瞬間は怖くて身構えてしまって、手が怖いのを堪えようと、ギュッと握り拳を作ってる。 「それで……」 「まぁ」 「!」  その握り拳を井上さんが包み込むように手を握ってくれた。 「一誠さんは、トウ君のこと知ってるんでしょう?」 「っ、うん、知って、る」 「よかったわねぇ」 「知ってる、んだ」 「……そう」  知ってて、それでも優しいまま、何一つ変わらないで接してくれた人は、二人目だ。一誠と、それから。 「それじゃあ、たくさん苦労したでしょう?」  井上さん。二人、確かに俺のことをこのまま変わらず接してくれた。あったかくて、少し分厚くて、小さいその手がとても好きだなぁって思ったら、俺の目から涙が溢れてた。  自分のことたくさん話したんだ。今までどうしてたのか、とか一誠とどう出会ったのか、とかさ。 「それで食事を?」 「うん。あの、食べないから、よく分からなくて」 「そうねぇ」 「失敗せずに美味しいのって、何か、ない?」 「うーん」  たくさん、でもないけれど、俺の今までなんて、殻の内側で小さく丸まっていた時間の方が断然多くて、時間がさ動き始めたのなんて、ホント、一誠に出会ってからだから。ちっともたいしたものではないんだけれど。それでもたくさん話した。  井上さんはそれを静かに聞いてくれた。  偽物オメガ、オメガを模した玩具、そうじゃなくて、いつも通りに接してくれて、眼差しは変わらなくて。まるで、お互いに毎週見ているドラマの話でもするみたいに。 「あ、そうだ!」 「は、はいっ」  井上さんが何か良いことを思いついてくれたのか、小さな両手を合わせて、パチンと叩いた。 「とっても簡単で、朝ご飯にだってできちゃうし、子どもも大人も大好きなのがあるわ」 「え! 何っ?』  料理、わかんないからさ。一誠に訊けば、そりゃ教えてくれるよ。だってケーキ屋だもん。包丁捌きだって、エプロン姿だって、なんだってすごいんだ。でも、それじゃ、誕生日のお祝いにはちょっとあんまりだと思うんだ。 「私の故郷の料理」 「……」 「ほら、この前、話したでしょ? ミルクの。あれが良いわよ」 「井上さんの?」 「そう、暑くて、海がすぐ近くにあって森もある。ここと違って、あそこはみーんなで食事をするのよ。親戚中が集まったりしてね。いただきますって一斉にいうこともあれば、バラバラの時間にやってきて、冷蔵庫にあるものも、お鍋に入ってるものも、好きなように食べて「行ってきます」って出かけるの」  皆が家族なんだと、また目尻をくしゃりとさせて笑った。 「トウ君にもレシピ教えてあげるわ」 「……」 「まぁ、たいそうなものでもないけれど、でも、そうね。親戚のおばちゃんの味、って感じね」 「……親戚」 「えぇ、トウ君の故郷の味」 「……」 「一誠さんに食べさせてあげなさいな。それとね」  またクシャクシャって笑って、そして、井上さんは自分のほっぺたに手を添えた。そしてその手で今度は俺のほっぺたを触って。 「トウ君も食べるのよ? 実際に身にならなくてもいいのよ。食べ物が必要とか必要じゃないとかじゃなく、匂いと一緒に口の中であったかいって感じてね」 「……」 「そう感じてくれたら、それは食べた、ことになるわ」  記憶っていう、俺の素になるって、井上さんが微笑んで教えてくれた。

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