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第1話 ココア
――オメガだったらねぇ……よかったんだけど。
わかったよ。もうそのセリフ何百回って聞いたよ。って、嘘だけど。まだ、十回とちょっと。
「……今度こそって、思ったのに」
悪かったな。オメガじゃなくて。ニセモノで。
「雨で壊れればいいのに」
なんで、頑丈なんだろ。意味わかんねぇ。オメガは雨に濡れただけで、高熱出してぶっ倒れそうなくらい、繊細で、細くて、弱いくせに。なんで、俺は壊れないんだろ。今、足元に放った、真っ二つに折れた画材道具みたいに、どうして、壊れてくれないんだろう。
「……」
どうして、俺は。
「これ、どうぞ」
「!」
耳に飛び込んできた柔らかい声に思いっきり飛び上がった。びっしょびしょに濡れた髪が、ビクンと揺れた拍子に目に当たって、それにまたびっくりして目をぎゅっと瞑る。そして、目を開けた瞬間飛び込んできたのは、真っ赤な傘。
「ごめん、忘れ物の傘でさ、女性ものなんだけど。でも、ないよりマシだろうから」
「……ぇ」
傘、俺に? そう思いながら、その赤い傘を持つ手を見た。短く切りそろえられた爪、太い手首、の割りにはマッチョってわけじゃなく、スラリとした長身の、男が、笑顔をこっちへ向けている。
「傘、どうぞ」
声と同じように柔らかそうな髪は緩いウエーブがかかっていて、優しく笑うそいつによく似合っていた。
「ぁ、いや」
「気にしないで。俺、そこでケーキ屋やってるんだけどさ、ずっと、ここに立ってたでしょ? タクシー拾うんなら、向こうのでかい通りのほうがいくらかつかまりやすいと思う。あ、でも、濡れてるから乗車拒否されるかな。歩いて帰れるの? 傘はいいよ。気にしないで。一番埃被ってたやつ持ってきたから。使って。もうきっと取りに来る人いないだろうからさ。じゃ」
「あっあのっ!」
一方的にしゃべったそいつは爽やかな笑顔で、まるで、映画みたいにその場を立ち去ろうとした。でも、俺はなんでか慌てて引きとめようとして、水溜りがあちこちにできている道端に、手に持っていた自分の絵をばらまいてしまった。そしたら、急にこのワンシーンが大昔の古臭くて、もう誰も見ないだろう駄作に早変わりする。
「うわっ!」
そう言って慌ててばら撒かれた絵を拾ったのは、俺じゃなくて、そいつ。雨に濡れちゃったら大変だと慌てて拾ってくれる、優しい男。たぶん、これが映画だったら、これから主人公が恋をするだろう好青年との運命的出会いってやつ。
「平気かな。これ、あ、滲んでっ」
「……いいよ、別に」
もうその絵には何の価値もないんだから。今さっき、捨てた画材と一緒に捨てる不要なものなんだから。
「もう、それいらないから」
「……ぇ?」
「傘も、いらない。ありがと。そんじゃ」
ぐいっと押し付けて返して、それで、元々いた場所に戻ろうと思った。俺の居場所はやっぱりそっちなんだろって、諦めて、もういいやって。全部放ったのに、それでもまだ壊れない自分が嫌いを通り越して、呆れる。笑えるよ。
「待ってっ!」
何をしても壊れない自分に、ある意味、ソンケーだ。
「待って」
「……は?」
「うち、ここからすぐのとこだから!」
「はぁ?」
「おいで」
「……はぁぁ?」
なんで、俺、まだ壊れないんだろう。
っていうか、なんで、俺、ここにいるんだろう。何、してんだろう。
「……これで大丈夫かな。乾いたらヨレちゃうかな」
「……」
「アイロンとか紙にやったら、燃える、よな」
っつうか、何してんだ、この男。
見知らぬ、雨でずぶ濡れの男を部屋に招いて、風呂入らせて、着替えの服まで貸して。もういらないって言ったのに絵を大事に乾かして、元に戻るんだろうかと心配までしてさ。部屋上がって、風呂借りてホッカホカになって、服ちゃっかり着替えた俺も俺だけど、この男も相当、変わってる。でも、俺はいいんだ。今、ものすっごく自棄になってるから。
知らない奴の部屋。こじんまりとした、ワンルームの部屋は男ひとりが住むにはちょうどいい広さ。でも、男ひとりで住んでいるわりには、甘い匂いがしてる。何これ。お菓子? チョコ? バニラ? しかも、すげぇ、きれいにしてあるし。
「あの……」
「あ、シャワー浴びた? 身体冷えたっしょ? サイズ、あはは。やっぱでかいよね」
「……」
そいつが笑った。俺に貸してくれた服がダボダボで、襟口なんてめちゃくちゃでかく開いててさ。かろうじて肩に引っ掛かってる程度。俺は背はまだあるほうだけど、とにかく細いから、これじゃみすぼらしくて仕方ない。
でも、いいのか。俺は別にみすぼらしくたって。
「すぐ帰るから」
「え? いいよ。まだ服乾いてないし」
「彼女さんとか来たら、まずいだろ? いくら男でもさ」
「は?」
こんな綺麗にしてて、甘い香りがしてんだ。彼女持ちだろ? そしたら、俺はたぶんやばい。男だけど、見た目、自分でいうのもなんだけど、それなりに顔良い方だから。男でも、女でも相手できるよう、顔のつくりは良くできてる。
「っぷ、あははははは。ありがと。心配してくれたんだ? そういう相手、今いないから平気。いくらでも長居できるよ」
やっぱ、変な奴。そこで大笑いって、フツーしないだろ。
「今、服も絵も乾かしてるからさ。待ってなよ。ね、これ、自分で描いたの? すげぇきれい。水彩? だよね。滲んじゃったけど、どうにかなる? 上手いね」
まるで洗濯物みたいに、洗濯バサミで紙の両端をしっかり伸ばして干された、俺の描いた絵。
「これって、花? 綺麗だ」
「コスモスだよ」
そいつが眺めて、感心したように溜め息を零したのは、今日、出版社に見せるためにって徹夜で仕上げた絵だった。テーマなんてたいそうなものはない。ただ、綺麗だったから描いた満開のコスモスの絵。本当は近所の公園に一畳分くらいで群生してたのをイメージ膨らませて描いたんだ。だから、ニセモノの花。
ニセモノの俺が描いた、ニセモノ。ぜーんぶ。
「本物より綺麗だ」
「……」
でも、本物じゃなくちゃ、価値なんてねぇじゃん。
「ちょっと待ってて」
こんな大事に干してもらったって、どうせ乾いたらヨレてみすぼらしくなるだけ。これが雨に濡れてなくても、その価値がゼロになことに変わりはないけれど。
「はい。どうぞ」
「……」
「ココア。あ、コーヒーのほうがよかった? 寒いし、甘いほうがいいかなって」
「……いや、あの」
ニセモノに価値なんてない。
「あの……」
オメガの模造品である俺に、価値なんて、ない。そんなのわかってたよ。わかってたから、ずっと隠してきたのに。でも、結局バレて、見い出されたと思った価値はゼロに、地底に叩きつけられる。そこの地面に這いつくばってるべきだって、押し潰されて、土まみれだ。
本物になんてなれないのは俺が一番わかってたけどさ。それでも、焦がれるだろ? 高いところから見える景色はどんなふうなんだろうって。
「純正ココアだからめちゃ美味いよ」
「あのっ!」
「?」
ニセモノなんだ。
「俺」
繊細で美しくて、可憐な、オメガを真似しただけの模造品。
「俺、オメガのセクサノイドだから、こういうのいらない」
「……」
「飲んでも別に」
セクサノイド、には価値なんてない。
「でも、飲める?」
「は?」
「あったかくて甘いから。飲めるなら飲んでみて? したらきっと消えるよ」
「……はぁ?」
「ここ」
そういって、そいつは綺麗なココア色をした瞳の間、眉間を自分の指でクンと押した。
「眉間の皺。ほっこりして、消えるからさ」
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