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第一章:絶望と“王子”
「目が覚めましたか?今、先生を呼んできますね」
見慣れない天井。
一定のリズムで聞こえてくる機械音。
消毒の匂いと 去っていく看護士の姿に、この時初めてここが病院だと分かった。
「…っ…ぅ」
頭が割れるように痛くて、自分の身に何が起きたのかも思い出せなければ 起き上がることもままならない。
身を捩り、そばにあるテーブルの上の眼鏡に手を伸ばす。
ぼやけていた視界が鮮明になるのと同時に、病室のドアをノックする音が聞こえた。
「茅野(カヤノ)さん、入りますよ」
「あ、はい…」
返事をするとすぐに扉は開けられた。
どこか急いだような足音のする方を目で追うと、現れたのは若い白衣姿の男だった。
…先生、だろうか。
「…あぁ、いいですよ。そのままで」
起き上がろうとした僕を制し、彼は近くにある丸椅子に腰掛ける。
「すみません」
そう言い頭を下げると 男は微かに笑い、手元のカルテに一度目をやった。
「えー…茅野 雪(ユキ)さん。初めまして。担当医の馬渕(マブチ)と申します」
ゆったりとした口調からは優しさが滲み出ている。このご時世、医者になるのは7割がαの人間だ。なのに彼からはそんな雰囲気を感じない。
もちろんβの医者もいるが αが大部分を占める院内では肩身が狭いだろうし、Ωにとって医者になることは夢のまた夢の話だ。
「…ここに来るまで何があったのか、覚えていらっしゃいますか?」
「あ…いえ。会社で昼食をとったことは覚えているんですけど…」
病院に運ばれたであろう日の昼頃までの記憶はある。
でもそれからどれくらいの時間が経ったのかも、自分の身に何が起きているのかも分からない。
「あの、今日って何日ですか?」
「12月24日…クリスマスイブですよ」
「え…あれから2日も経っているんですか?」
「ずっと眠っていらっしゃいましたから」
「そうですか…」
想像以上に時間は過ぎてしまっていた。
特に何か予定があるわけではないが、会社のことを考えると胸が痛む。ショッピングモールに隣接する電気屋で家電製品を売っている僕は、丁寧な対応を心がけているためか売上も悪くなく 店長からも信頼されている。
それがまさかこんなふうに迷惑をかけると思わなかった。
しばらくの沈黙の後、男は重たそうな口を開いた。
「…茅野さん。最近匂いに過敏になったり、腹部への痛みを感じることはありませんでしたか?」
腹部への痛み、と聞いてハッとする。
あの日…倒れた日は確か ひどい腹痛がした。そしてトイレへ向かおうと席を立った時、視界が歪んで__
「他にも倦怠感や頭痛、吐き気などの症状が…」
頭がついていかない。
まるで自分に関係のない話を聞き流しているかのようで、そこに意識が集中しない。医者の言葉がどこか遠くから聞こえる。
「茅野さん?…茅野さん!」
体…変だ。熱くて、奥の方が疼いてたまらない。それに息も上手くできない。
「208号室 患者の容態が急変。ヒートだと思われます。至急 Ω-ヒート鎮静剤の用意を」
あぁ…ダメだ。会社へ行かないと。
普通の暮らしでいい。些細なことで幸せだと感じられる生活でいい。βとして生まれ育ち、今まで平凡に生きてきたじゃないか。それで、良かったのに。
「茅野さん、聞こえますか? 茅野さ……」
肩に置かれた男の手の感触を感じながら 僕はまた意識を手放した。
▽Ω-ヒート鎮静剤
Ωのヒートが起きてからヒートを抑制する薬。副作用が強いため市販されておらず、ヒートによる意識障害などを起こした場合 病院で投与される。発現したヒートを一時的に止めることができるが、1~2週間後に再発するため、ヒートを避けるにはその間に発情抑制薬を服用しなければならない。
▽発情抑制薬
短期間の服用で効果を得られる短期抑制薬と、毎日の服用で効果を得られる長期抑制薬がある。
短期抑制薬は病院でしか処方してもらえず、長期のものに比べ高価。吐き気・目眩・食欲不振などの副作用もある。予想されるヒートの3日前から服用することで 抑制することができるが、ヒートになってから服用しても効果はない。発情期の抑制は可能だが、避妊効果はない。
長期抑制薬は市販されており、そのほとんどは毎日服用する必要がある。中には隔週のものもあるが 50%の確率で発情期を抑制できないことがある。また長期発情抑制薬は子宮の形成を抑制するため、避妊効果もある。
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