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第1話『東窺西望猫』

 彼に起こった変化は  ただただ彼を混乱させた。  結果として彼は  未開の地に至った猫のように  落ち着きを失ってしまった。  -ロドンのキセキ:紅水晶のケエス・芽吹篇-第1話『東窺西望猫』 -  その日、御影(ミカゲ)は住み込みで働いている稲荷神社の裏手で、日課となっている狐たちのブラッシングをしていた。  御影はネコ科亜人としては少し珍しい、カラカルの亜人であり、現在23歳の青年だ。  御影の耳はやや大きめで反りかえるような形状をしており、その先端部分の毛が長いのが特徴的だ。また、尾は太めで先端がすっとすぼんでいる。  そんな御影が生活している神社では、都市に降りてきては戻れなくなってしまった狐などを保護し、飼育している。  狐たちはまだ別の狐がブラッシングしてもらっているというのに、次は自分だといわんばかりに御影に身体を擦り付けたり、御影の尾を甘噛みしてはじゃれついたりする。 「痛って!わかったから噛むなって!甘噛みの加減くらい覚えろってば!」  御影に文句を言われつつも、自分に意識を向けられて嬉しそうな狐はよりはしゃぎだす。  その最中、既にブラッシング終え満足気であった1頭が飼育スペースの入り口へと軽やかな足取りで向かっていく。 「おやおや、随分ふわふわにしてもらったんだね。よしよし。」  御影が狐たちに囲まれ奮闘している背後から、稲荷神社の神主である樹神(コダマ)が声をかける。  御影の雇い主でもある樹神は、現在28歳で、稲荷神社にぴったりなホッキョクギツネの亜人でである。  真っ白な耳と、同じく真っ白でやわらか尾を持つ。  樹神はふわりとした尾をゆったりと揺らがせながら駆け寄って来た狐を撫でる。 「自信作自信作!」  狐とおしくらまんじゅうをしているかのような御影が振り返り、達成感に満ちた笑顔を樹神に向ける。  そんな御影に樹神も笑い返し、お疲れさまと声をかける。  この稲荷神社では現在、御影と樹神に加え数十頭の狐たちが暮らしている。  元は樹神と狐たちだけで暮らしていた神社だったが、今から1年ほど前に御影が仲間入りし、2人と数十頭という共同生活となっていた。  なぜ御影がこの神社で暮らす事になったかといえば、それは彼が1年前に大学を卒業し、職探しをしていた時、この神社で保護している狐の世話係を募集していた事がきっかけとなった。  当時の御影は様々なスポーツをしながら過ごし、気の向くまま飽きる事のない学生生活を送っていた。  大学に入りたての頃は、誰もが経験するようなスポーツをしていたが、大学を卒業する頃にはパルクールなど、身体能力を要するスリルのあるスポーツまで楽しむようになっていた。  持ち前の身体能力を活かし、大きな怪我もなく存分に多くのスポーツを堪能し、学業も問題なくこなしながら卒業へと至ったわけだが、彼は特にそこから就職という考えはなく、バイトとして色々な経験をしたいと思っていた。  ただ万が一就職を選ぶなら、住み込みで長く働ける場所で、と考えていた。  そんな時、御影は稲荷神社で暮らす狐たちの世話係の募集を見つけ、もとより動物の世話をする事も好きだった御影は深く考えずにその募集に応募した。  御影は、神社というくらいだからきっと老いた神主がいて、年齢的にも狐の世話が大変になってきたから世話係を募集する事にしたんだろう思っていた。  だが、応募先の電話に出た人物の声は想像より随分と若い男の声だった。  もしかしたら電話対応だけ若い人に任せているのか、あるいは業者に仲介してもらっているのかもしれない、などと考えながら御影はその男と必要最低限のやりとりをして面接の予定をとりつけた。  流石に神社で働いた事などなかった御影は、面接の日、少しドキドキしながらも神社へと向かった。  時間通りに神社に到着すると、階段上の鳥居を過ぎたあたりで1人の男の姿が見えた。  文字通り純白という印象を受けるその人物は、自分よりも背が高いように感じた。 「あの……」  御影が恐る恐る声をかけると、その男が御影の方へと顔を向ける。   「おや、はじめまして。もしかして面接の子かな?」 「あ、は、はい。御影といいます。」  にこりと微笑んだ男の声には聞き覚えがあった。  応募の電話をかけたとき、対応してくれた男の声だ。  という事は、この男は神主と一緒に神社で働いている人だったのかと考えた御影は、神主の居所を尋ねる。 「あの、神主さんはどこにいらっしゃいますか?」 「神主ですか?神主でしたら、ここにいますよ。」 「へ?」  男は愛想の良い笑顔を向けたまま御影の質問に答えたが、当の御影はあたりを見回しながら混乱するだけだった。 「え、えっと」 「あはは、すいません。」 「?」 「はじめまして、御影君。僕がこの稲荷神社の神主をしている樹神です。どうぞよろしく。」 「……ええっ!?」  御影は驚きの声をあげたまま少しの間思考ができなくなってしまった。  そんな御影を楽しそうに観察した後、樹神は住居となる平屋の方へと御影を案内した。  そしてその日、御影は無事客間で気の抜けるような面接を終え、その稲荷神社で住み込みで働き始める事になった。  樹神と出会った当時の事は今でもよく覚えている。  御影は、神様ってあんな感じなんだろうなと、当時の樹神の後ろ姿を思い出しながらそう考える。 神社で生活し始めた頃は少し緊張していたものの、樹神のおおらかな性格や、神社内の穏やかな雰囲気のおかげで御影の緊張もすぐにほぐれていった。  そして、御影は狐の世話だけでは気がおさまらず、次第に家事一般も引き受けるようになり、今ではすっかり御影が料理担当ともなっている。  樹神はそこまでしなくてもと言ってはくれるのだが、御影はただ自分がやりたいからやっているのだと言い張って譲らなかった。  御影も遠慮や義務感ではなく、本心からただやらせてほしいと思っていたので、むしろ任せて貰える事が嬉しかった。  そのようにして御影は樹神と狐たちと共に穏やかで楽しく心地のよい毎日を送っていた。  ただ、ここ最近になって彼はひとつ小さな悩みを抱えはじめた。  それは彼が自覚出来るほどの自身の変化が原因だった。  樹神には気づかれていないだろうが、御影はここ最近、どうにも自らを慰める回数が増えてきたのだ。  突然というわけではないのだが、徐々にその回数が増えているのは確かだった。  とはいうものの、彼自身、元々はその頻度が非常に低いタイプだった為、現状の頻度としては一般的にはそう多くもないのだろうが、元の頻度が低かった御影には戸惑いを与えた。  御影のその頻度が低く済んでいた理由は、スポーツで日々が満たされていたというところにある。  彼にとって精力を費やす対象はスポーツ、つまりは運動にあり、そこで様々な欲求を満たしていた分、生理的に必要にならない限りそこに気をやることもなかったのだ。  だからこそ回数は少なかったものの、今は学生時代と比べれば格段に運動の比率は少なくなってしまった。  その結果として、慰めが人並みの比率に至って来たというわけだった。  ついでに添えるならば、御影は恋愛というものに興味をもたない学生だった。  それゆえに性愛にも疎く、彼自身童貞を捨てるか捨てないかで悩んだ事もなかった。  本当に興味がなかったのだ。  だから周りの友人が大学の卒業とはまた違う卒業とやらに躍起になっているのも不思議に思っていたほどだ。  別に卒業していようがしていなかろうが、死ぬわけでもないのに。   「変なの。」 「何が変なんだい?」  頭であれやこれやと考えながら食器を洗う手を止めそう呟くと、後ろから樹神の声がした。 「えっ、あ、ううん。ひとり言!」  突然かかった声に少し驚いたが、御影はそう言って笑い返す。  樹神の声色は穏やかで優しいが、発される音は意外と低い。  樹神のその声を近くで聞いていると、音の低さがより際立つ。  やわらかで少し息を交える様にゆったりと発される声は太いというわけではないが、低く響く。  稲荷神社の裏手にある大きな平屋は、2人で暮らしていても神社同様にとても静かだ。  そこで風の音や鳥や虫たちの鳴き声も静まってしまえば、空気の音すら聞こえてきそうなほどだ。  樹神が御影の返答を受け、不思議そうな顔で首を傾げはしたものの、それ以上は追及してこなかった。 「御影、今日も一日お疲れさま。おやすみ。」 「おやすみ。」  いつも通り労いの言葉をかけて微笑んだ樹神に御影も1日の終わりの挨拶を返すと、今一度おやすみと言った樹神が灯りを消す。   御影が住み込みをし始めた当初、樹神は御影に個人の部屋や寝室を用意する事を提案してくれたのだが、御影は咄嗟の遠慮からそれらを断った。  結果として、住み込み初日から同じ寝室で寝る事になったのだが、何部屋もあるこの家で、わざわざ同じ部屋で寝る選択をする必要もなかったかもしれないが、今となってはこの環境が心地よいので、樹神の迷惑にならない限り御影はこのままでいさせてもらうつもりでいた。  遠くで木々がざわめく音がしている中、かすかに樹神の静かな呼吸音が聞こえてくる。  御影はふと隣の布団に目をやる。  樹神の寝姿は異様なほど整っていて、身体を横に倒し、丁寧に布団をかぶればそこからは動く事がない。寝相というものをなくしてしまったようだ。  その寝姿を長く見ていると不謹慎な想像をしかねないほどだった。  肌も髪も白いせいか、もし彼が仰向けで寝ていたならばあらぬ想像はよりしやすくなってしまうだろう。  樹神に大きな尾があってよかったかもしれない。  もし自分のように細長い尾であったなら、樹神は仰向けでも寝やすくなってしまう。 「……。」  自分でも何を考えてるのだろうと思い至ったところで、樹神の整った顔を見て、また別の事を思った。 (樹神は、恋人とかいないのかな……。)  樹神は男の自分から見ても顔が良いと感じていた。  だから神社に参拝にくる女性の中には樹神目当てで来ている人がいるのも感づいていた。  神社の参拝にくるだけなら、わざわざ高級そうな手土産や手作りの菓子などをもって来ないだろう。  樹神と会話する女性たちの目もまた、樹神しか映していないのがよくわかった。  樹神は性格こそおだやかで、どちらかというと天然が入っている方なのだが、外見はいわゆるイケメンというものに相違ないものだった。  というのも、身長が高いだけでなく体つきも随分良い。  普段は着物を着ているからかそれがあまり目立たないのだが、どこで鍛えてるのかというほどしなやかな筋肉がついていて、モデルをしている言われても納得できそうなものだった。  だから女性たちから人気が出るのも至極当然のように御影は受け止めていた。  ゆえに、婚約者がいない事が不思議だった。  年齢的には恋人でも大いにあり得るが、樹神からそういった恋人や1人の女性という存在がいるような様子は見受けられなかった。  ただ、そこまで気になっていながら御影が未だにその話題を出せないのは、寡夫(かふ)である可能性を考えたからだった。  最愛の妻を想い続け、亡くなった今も別の女性に気をやる事など考えにないからこそ、今も独り身なのかもしれない。  その考えに至ってから、御影はその話題を出さないようにしておこうと心に決めたりもしていた。  実際にどうかはわからないが、万が一にでも相手を傷つける可能性のあるきっかけをわざわざ作る必要はない。  御影はそう考えていた。  だが、一度考え始めてしまえば、興味は樹神の女性関係の事へと集中し、思考は展開されていく。  もし寡夫であったとして、初恋からずっとその人だけを愛し続けてきたのだろうか。自分と同じ学生時代や今迄の間。恋人は何人いたのだろう。  1年ほどこうして同じ屋根の下で生活していても、御影は樹神の事をほとんど知らない。そう思うと少しだけ寂しい気持ちになった。  その最中、考えはあれやこれやと更なる発展をみせていった。  それからどれほど思考を巡らせていたかわからないが、ついには樹神と女性たちの情事にまで考えは至ってしまった。  樹神はたまに、御影が本気で心配になるほどの天然を発揮する事がある。  そんな樹神はいざという時、ちゃんと女性をリードできていたのだろうか。  実際にいざという時を体験したこともない自分がこのような心配をするのも間違っている気がするが、体験してようがいなかろうが、樹神へのその不安は生まれてしまう。   (そういう時って、どんな風なんだろう。)  御影は体験こそした事はないが、イメージとしてはその行為についての知識をもっている。  だから行為とは何をどうするべきなのか、男は女に対してどうしたらいいのかくらいは理解しているし、実際の常時も画面を通してなら何度か観たこともある。 (もしかしたら、雰囲気全然変わるのかな。)  学生時代に、女は男のギャップに弱いというような話題で友人たちが盛り上がっていた事があった。  普段スマートで完璧な男がふと見せる弱みは女の母性本能をくすぐり、逆に普段ぱっとしない男が男らしい一面を見せると女はそこに魅力を感じるといったような、普段と相反した一面には魅力があるというものだ。  もし樹神がそのギャップをもつ男なのだとしたら、後者になるのだろう。  つまりいざという時、普段天然でどこに何を置いたか忘れるような樹神が、つい見惚れるほどの表情で女をリードしながら、その心を満たし愛す。 「……。」  まるで恋する乙女のようにあらぬ方向へと想像を膨らませた御影の脳内では、すっかり情事のビジョンが出来上がっており、後は想像のまま、樹神と誰ともつかない女性の行為を脳内で眺める。  ほんの数十秒の間、その光景に意識をもっていかれていた御影はとある感覚によって現実に戻された。 (……うそだろ。)  御影は掛け布団をそっと手で押し上げ中を伺い、小さなため息をつく。  ここ最近、御影の身体に起こった変化はこんなところでも成果を見せつけてくる。  御影はなるべく物音を立てないように寝室から抜け出し、トイレに向かう。  ゆっくりと扉を閉め、本日2回目のため息をつく。 「マジ、何してんだよ……。」  同居人以前に雇用主である男と、顔もはっきりしないような架空の女が交わる様子など想像した挙句、知らぬ内に自身まで反応させてしまった自分に心底呆れる。  御影はすっかり準備万端といった自身に触れ、ゆっくり呼吸する。   気持ちを落ち着ける為に深呼吸をしたつもりだったのだが、息を吸えば身体に熱を感じ、吐いた息が心の興奮を自覚させた。  経験がなくとも、そこに興味がなくとも、本能的に備わっている欲求には抗えない。  特に、その欲求と向き合う回数も少なかった彼には、その欲を満たしてやる他に手立てはなかった。  脳内で再び浮かび上がる光景に背を押されるように、御影はまた呼吸する。

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