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Flame 第2話
だが、波濤の方にしてみれば、龍に囲われて何不自由なく過ごすというのも、正直なところ気が引ける話だった。ホスト業は日本に来て初めて就いた職であるし、育ての親である黄老人を亡くして頼るところのなかった自分を支えてくれた思い入れの深い仕事である。しかも、オーナーの帝斗や同僚ホストらにも温かく接してもらい、恩もある。直ぐには辞めたくないというのも本心だった。
が、やはり龍としては心配なのも否めない。仕事柄、女性たちと疑似恋愛的な雰囲気になるのは否定できないし、今までアフターで深い関係を結ばざるを得なかった男性客が再び指名してくることもあるだろう。案外、心配性で独占欲も強い性質 の龍にとっては、そんな中に波濤を置いておくなど論外である。
双方どちらも引かずに、話向きは一向に進展しない。そんな様子を横で見ていた帝斗の提案で、しばらくの間、休暇を取っていいから二人でゆっくりと話し合えということになったのだった。
こうして、帝斗の申し出に甘えることにした二人は、香港へと向かった。波濤を育ててくれた黄老人の墓前で報告をしたいという龍の希望を、波濤も有り難く受け入れ、二人一緒に墓参りに出向いたのである。
久しぶりの香港の地だった。
生まれ育ったこの地を離れ、日本へと旅立つ際に、たった独りで不安を抱えながら乗った飛行機――周囲には誰一人知り合いもおらず、頼るところも皆無だった。
飛行場に降り立つと、郷愁が胸を過 ぎる。
遙か遠くの空を見つめながら当時を思い返せば、切なさやら懐かしさやら様々な記憶が胸を締め付けてきて、思わず涙があふれそうになった。そんな様子を気遣うように隣からそっと肩を抱き寄せられて、現実に引き戻される。自らをやさしく包んだのは、愛しい男の頼もしい腕だった。
波濤にとってその温もりは狂おしいほどに温かく、そして嬉しく愛おしく、何ものにも代え難い大切なものだと痛感させられる。
そうだ、今は独りじゃない。
愛する唯一人の男の傍らで、こんなにも幸せに包まれている。
懐かしい香港の地は、波濤に改めて大切なものを自覚させた――そんな旅であった。
◇ ◇ ◇
「はい、皆静かに! とにかく座ってくれ。朝礼を始めるぞ」
ざわつく店内にオーナー帝斗の一声が響けば、龍と波濤を取り囲んでいたホスト連中も渋々とソファ席に腰を下ろし、月一合同会議の始まりである。帝斗は龍と波濤を自らの脇に座らせると、すっくと立ち上がって全員を見渡した。
「皆も知っての通り、今日は波濤と龍が来てくれている。約一ヶ月間という長い休暇で皆にも心配を掛けたが、こうしてまた顔を揃えてくれたことを嬉しく思うよ」
そんなオーナーの挨拶を聞き終わるのを待てずといった調子で、方々の席から声が上がった。
「オーナー! 波濤さんたちは今日からまた復帰してくれるんスよね?」
「マジで待ってたんスよ、俺ら……!」
再びざわつき出す一同を片手を上げて制しつつ、帝斗は言った。
「いや、波濤も龍も一先ず復帰はするが、この後、正式な発表をもってホストは引退となる」
そのひと言にフロアー全体に地鳴りが走るような絶叫が轟いた。
「ええー! それ、マジなんスか!?」
「だって……引退イベとかもやってねえのに……」
「そんなの、客だって納得しませんよ!」
「俺ら、これからどうすりゃいいんスか!」
戸惑いと苦情の嵐である。
「とにかく落ち着け! はい、いいから一旦座って!」
帝斗が少し声高かに皆を鎮める。
「二人の引退セレモニーは来月の桜祭りイベントに重ねて行う予定だ」
頃は三月の半ば過ぎだ。もう二週間を待たずして桜前線の声が聞こえる時期である。
皆が待ち焦がれる心躍る春の到来――そんな時期にナンバーワンホストを競っていたトップの二人が揃って引退だなどとは、まるで別れの花吹雪のようだと皆が一気に消沈する。
「……ンなの、酷いッスよ。俺らを置いて……客だって皆泣きますよ」
「何でいきなりこーゆーことになるんスか! 納得できる理由を教えてくれなきゃ承知できませんって!」
半ば涙声になりながら、そんなふうな声が上がる。そんな彼らに言い訳も説明も端折って、オーナー帝斗はもっととんでもないことを口走った。
「それから――もうひとつ報告がある。その桜祭りのイベントを最後に僕も代表を辞することにした」
そのひと言に、フロアー全体が水を打ったように静まり返った。
誰も言葉を発することさえ出来ずに、ただただ驚きに呆然とするばかりである。しばしの後、現在のナンバーを競う立場にある人気ホストたち数人が筆頭となって、代わる代わる苦渋の胸の内を絞り出し始めた。
「……ンなの、冗談っすよね? 波濤さんと龍さんに続いてオーナーまで辞めちまうなんて」
「俺たち、これからどうすりゃいいんスか!?」
「この店、畳むってことですか? 急にそんなことって……酷えよ……」
オーナーはそんな薄情な人ではない、俺たちは貴男 を信じています、言葉にせずともそう言いたげな瞳で全員が帝斗を見つめる。
場は静まり返り、誰もが言葉を失ったようにひと言も発せずにいた。
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