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第1話プロローグ
「優劣」という言葉は「優」と「劣」の対の語が組み合わさってできている。
今の世の中も、「優」にあたるαと「劣」にあたるΩは対であるが、組み合わさってもいた。
欠陥品を代名詞にしたような人種のΩ、という風潮が強かった昔は、Ωが就職できたのはΩ全体の三割も満たない劣悪な世界だった。
しかし、それは昔の話。
Ωの誰が運動を起こしたのか定かではないが、「Ωも番がいてくれたら、社会にだって出られる、普通の人間だ」という主張をしたらしい。
番(つがい)はαの身内に入っていくような契約で、それは一生ものだ。
Ωのうなじから凄まじいフェロモンが香るのも、より匂いを感じる優秀なαを誘い込むための本能にすぎない。
そのせいで定期的に来る発情期があるから、煙たがられ、動物のようだと揶揄されていた。
だが、Ωの主張が徐々に浸透していった。
心と身体が離れてはいけない、とαの人間もΩに対して寛容的になり、番となるカップルも年々増加傾向にある。
持っているものは、持っていないものに、分け与える。
そんな世間の常識が変わってきた今日この頃。
恭弥は今も昔も変わらず世の中に蔓延し続けるβだった。
αやΩと違い、特異性の欠片もないβは、どの要素に対してもまずまずの充足率があるため、β単体でも成立できる。
つまり「優劣」という二語の熟語に対して「凡人」という熟語は、対の意味もなさないただの「凡」である人、のようなニュアンスだ。
だからか、番、という契約自体、通用しない。
現在では害悪のような立ち位置、差別的視線を浴びているのは、普遍妥当な存在のβだった。
そのβは虐げられることこそはないが後ろ指は刺される。
そこそこの能力があっても何の役にも立たない、と。
三種類しかない人種のうち、二種類が協力をしだすと、自然と一つは仲間はずれとなる。
それが多くいるβであり、βは同じ者同士で身を寄せ合うように子を産んだ。
結果、常に定員はいるβが更に増加し、全体の七割を占めた。
それでも、肩身の狭いβ。
その意識が恭弥は嫌いだった。
多くあるものには価値がなく、少ないものには希少価値として付加価値をつけ高くする。
もっと不思議なのは、それをなぜ、人間にも適用している世の中であるのか、ということだった――。
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