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第35話

ああ、なんでこんなところに来てるだろう。 3月中旬、ようやく春が近づいてきてるってことを感じさせる平日の夜、俺はオフィス街の一角にあるカフェで何杯目かのコーヒーを飲んでいた。 通りに面した窓側のカウンターに座ってスマホをいじりながらも、俺の視線はちらちらと斜め向いのビルへと向かってしまう。 ――本当にすぐ近くにあるんだな。 話に聞いていたとおりで、きっと仕事の合間に休憩するのには便利なんだろうと思いながらブラックコーヒーを飲む。 何時頃終わるんだろう。 もうすでに時間は夜の8時を過ぎている。 でもまだ出てきてない。会社にいるはずだ。 ――誰がって……智紀さんだ。 もうかれこれ二時間近く俺はこの店に居座っている。 こんなに自分がヘタレなんて思ってもみなかったけど、バカみたいに6時からここで智紀さんが出てくるのを待っていた。 別に待っていたところで声をかけるとも限らない。 それにもうずっと忙しいってことは知ってるし、先週末も会わなかったし。 本当なら先週末に渡すつもりだったんだ。 今日は平日だし、会えるかわからなかったから。 いや、智紀さんなら会おうとメールしてくるかなって思ってた。 だけど予想に反して一昨日届いたメールは忙しいってことと今度あったら癒してね、なんていうことだけ。 俺はそれにそっけない返事をして終わった。 本当は今日のことを聞きたかったのに。 だってあの人なら意地でも会いそうな気がしたんだ。 一か月前、くれたし。 ……バレンタインに、チョコとプレゼントを。 だから一ヶ月後の今日お返しを要求されると思って、他意なんてなくしつこく言われそうだからっていう理由でホワイトデーの用意をしていた。 まだ社会人前の俺に用意できるプレゼントなんてたいしたもんじゃないけど。 「……いつも強引なくせに」 俺の意思なんて無視して振りまわして巻き込んでいくくせに。 「どーすんだよ、コレ」 テーブルに置いたプレゼントの入った紙袋を指ではじく。 今日渡さなかったら、いや渡せなかったらきっともう渡せないような気がする。 絶対催促してくるって思ってたのに。 思わずため息が出て、自分の馬鹿馬鹿しさに呆れた。 そんなに待つくらいなら自分から連絡して、さっさと渡してしまえばいい。 あとで催促されても面倒だからとか言って渡すだけ渡してそのまま帰ればいいんだ。 そう思ってメールだってもう何回も送ろうとした。 けど、結局送れずにこうして俺はここにいる。 多分渡せないだろうな。 またひとつため息を吐きだしてぼうっとしていると、俺の視界の中に数人の男女が目当てのビルから出てきて一気に心拍数があがった。 慌てて身を乗り出す俺の目にはっきりと智紀さんの姿が映った。 智紀さんの会社の人たちなんだろう。 ビルの前で立ち話をしているようだった。 斜め向かいといったって距離はあるし、向こうが俺に気づくことはないだろう。 智紀さんは一緒にいる女性二人になにか渡して、そしてその二人は智紀さんと別れていった。 多分残ったのは松原さんという智紀さんの共同経営者だろう。 喋りながら二人は歩き出して俺の視界から消えていく。 俺はそのまま椅子に座りなおした。 なんとなく連絡をする気になれなかった。 さっき智紀さんが渡していたのが直感だけれどホワイトデーのような気がする。 別にだからと言って俺には関係ないんだけど――……。 それに他の人と一緒に帰ってるみたいだし、俺がここで出ていってもしょうがない。 いやそもそもなんで俺こんなところに来てるんだろう。 「ダッセェ」 自虐気味に呟く。 本当にありえない。 普段はもっとうまく人と付き合っているはずなのに、あの人が絡むとダメだ。 「……別に腐るもんじゃないしな」 機会見ていつか渡せばいいか。 "いつか"なんて来るのかもわからないけど。 コーヒー飲み終えたらもう帰ろうとため息つく。 智紀さんが帰った以上ここにいたってしょうがないし。 すぐに出ていったら鉢合わせするかもしれないからゆっくりコーヒーを飲んだ。 急にものすごく苦くなったような気がするけど気のせい。 スマホを手にとって別になにするでもなく画面を眺める。 ぼうっとしていたから、だから突然振動し始めたときには心臓が跳ねあがった。 バイブ音を響かせる俺のスマホ。 急激に心拍数があがって画面見て軽くパニックになる。 着信表示されてる名前は智紀さんだ。 焦りながらも深呼吸を何回か繰り返して電話に出た。 「……はい。もしもし」 『ちーくん? いま大丈夫?』 「はい……」 『こんばんは。なにしてたの? いま家? んー、なんか雑音するから外かな』 なんで電話かかってくるんだよ。 何故か緊張して、なのにどこかでホッとして、そして智紀さんの会社の近くにいるっていう事実がバレたらって慌てる。 「あ、はい。えと外で……ちょっと」 『友達と遊んでた? なら邪魔しちゃ悪いね。またかけ――』 「大丈夫です!」 ついでかい声で言ってた。 店内だってことを思い出して少し身を竦める。 電話越しに智紀さんが笑う気配がした。 『そう? ならいいけど』 「……智紀さんは? いま帰りですか?」 『俺? 俺はいま会社』 「……え?」 『といっても忘れ物取りに戻っただけだからもう帰るんだけど。ちーくんはまだお友達と夜遊び?』 智紀さんの会社のあるビルへと視線を向ける。 俺がぼうっとしてる間にまた来てた? ひとりなんだろうか。 「え、あ、いえ……ひとりです」 『そうなんだ。ふーん』 どうしよう、渡したいものがあるって言うか? でもどこで待ち合わせる? さすがにいま斜め向かいの店にいるなんて言えるはずない。 『ちーくんさ、いま……』 いつもなら強引に誘うくせに。 誘えよ、なんていう横暴なことを思ってると急に智紀さんの言葉が止まった。 少しの間が空く。 「智紀さん?」 『……あー、ごめん。ちーくん、一旦切るね? またあとで』 「え?」 驚いている間にあっさりと電話は切れた。

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