94 / 351

 ―― 身体と愛と涙味の……(26)

 ちょうど、来客用の駐車スペースが空いていたので、透さんの車を移動してもらってから、俺の部屋に向かう。  マンションとは名ばかりで、エレベーターも無いから、5階の俺の部屋までは階段を使うしかない。 幅の狭い階段を、俺が先になって上がって行く。 「階段しか無いなんて、信じられないよね?」 「まぁ、健康にはいいよ」    後ろを振り返れば、透さんはそう言って、余裕な笑顔を向けてくれる。  いつもと何も変わらない。と、思う。  さっき感じた不安は、やっぱり俺の杞憂にすぎなかったんだって、内心ホッと胸を撫で下ろしていた。  漸く5階の俺の部屋の前に辿り着いて、鍵を開ける。 「ちょ、ちょっと待ってね……」  細くドアを開いて、自分の部屋を覗き見ると、昨日から窓も開けていない部屋の、ムッとした匂いが流れてくる。――うわっ、これは思ってた以上に恥ずかしいかも! 「直くん? どうしたの?」  後ろから、透さんもドアの隙間から覗き込んだから、焦ってしまう。 「あ、ああ、いや、なんでも! やっぱり部屋、汚いかもって、あああっ」  慌てる俺に、透さんは笑いながら、「男の子だもんね」と、後ろからドアに手をかけて全開にすると、躊躇している俺より先に、「お邪魔します」って、部屋の中に入って行ってしまう。  中に入れば、玄関脇に申し訳程度のキッチンが付いているだけの、部屋の全貌が丸見えな、ワンルーム。 「あー、もう、本当に狭くて汚いけど、どうぞ」  二人で小さな玄関で靴を脱いで、透さんのコートをハンガーにかけて部屋を見渡すと、あまりの散らかりように、足の踏み場もない。  ローテーブルの周りに散らかっている雑誌を慌てて片付けて、クッションを置いて、取り敢えず座ってもらえるスペースを作った。 「あ、苺、透さんも食べるでしょ? 洗ってくるね」  苺の入った袋を小さいキッチンのワークトップに置きながら尋ねると、透さんは目を細めて微笑みながら頷いてくれた。 「あ、そだっ、えーっと、コーヒー淹れるね。でも、インスタントしかないけど……」  と、言ったものの、いつも整理整頓していないから、何処に置いたっけ、コーヒーコーヒー …… って、シンク上の吊り戸棚とか食器棚の扉とか、開けたり閉めたりして、あちこち探す羽目になってしまう。 「あ、あった、あった」  言いながら、ケトルにペットボトルの水を入れて、コンロにかけて……。 「えーと、それから……苺、苺!」  バタバタしながらボールに苺を入れて洗おうとしたところで、不意に後ろから抱きしめられて、驚きで身体が強張った。 「と、とおるさん……」 「そんなに慌てなくていいよ」  背後から耳元に囁いて、そのまま項に唇を寄せられて、ピクンと身体が震えてしまう。 「……煙草……」 「え?」 「煙草の匂いがする……」 「……あ……」  透さんのひと言で、一瞬にして身体が凍てついたように動けなくなってしまった。  ――それは、みっきーの吸っていた煙草の残り香に違いなかったから。

ともだちにシェアしよう!