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 ―― 幸せのいろどり(86)

 細めた目尻に柔和なしわをつくり、穏やかな眼差しで俺を見つめている。 「なんだい? 話って」 「会社を…… 辞めようと思っています」  俺の言った言葉に眉ひとつ動かさずに、「理由は?」と訊く。 「坂上工務店と父さんの会社は今年提携を結んで、ゆくゆくは合併も考えていて、これからもっと規模を広げていくつもりなんでしょう?」  父は、穏やかな表情を崩すこともなく、ただ黙って小さく、うん、と頷いた。 「ある程度決められた既製的な家を、大量生産のようにキツい工期で仕上げていくことよりも、俺は……、もっと心の篭った家づくりをしたい。それが夢だったことを思い出したんです」  俺の話終わるのを黙って最後まで訊いていた父が目を細め、俺を見つめた。  反対される事は覚悟していた。 だけど、その瞳は意外にも穏やかだ。 そしてゆっくりと柔らかい口調で俺に問いかけてくる。 「辞めてどうするつもりだ? うちの社に戻ろうと考えているのか?」 「…… いいえ」  それでは、今までと何も変わらない。 「神谷さんの設計事務所で雇ってもらおうと思っています」 「…… 神谷くん、か」  神谷さんのことを思い浮かべているのか、父は俺から視線を外して遠くを見つめている。  父が神谷さんのことを、どう思っているのかは、俺の知るところではないし、もし反対されても、もう俺の気持ちは決まっている。  それとは別に、もうひとつ言わなければいけない事を、父の返事を待たずに続けた。 「なので…… 美絵さんとの婚約は、解消したいのです」  俺の言葉に、父はにやりと口角をあげた。 「…… やっと反抗期か」 「…… え?」 「28年間、透の我侭ひとつ聞いたことがない気がしていたがね」  俺は、そんなつもりはなかったけれど……。  一旦、言葉を区切った父が、椅子の肘掛に肘を置き、頬杖をついて此方を見上げた。 「…… 好きに、すればいい」  そう言われるとは、全然予想していなかった俺は、驚きで予め用意していた言葉が全部吹っ飛んでしまった。 「私は一度だって、透に会社を継いでほしいなんて、言った覚えはないしね」 「……」  それは…… 確かにそうだったかもしれない。  あまりにも当然のように歩いてきた道だったから、今、父に言われるまでそれに気が付かなかった自分に呆れてしまう。 「だけど、一つだけ言っておく」  驚きを隠せなくて言葉に詰まっている俺に、父はさっきまでと違い、力のある眼差しを向けた。 「美絵さんのことは、自分でケジメをつけなさい。 必ず結婚すると美絵さんに言ったそうじゃないか」  ―― それは…… あの夜、俺が言った言葉に間違いなかった。  もうそれを父は知っているのだから、隠したり誤魔化したりする必要もなく、俺は真っ直ぐに父の目を見つめて、これからやろうと思っている事を伝えた。 「…… はい、分かっています。 明日大阪に行って、美絵さんにお会いして話をします。 それから辞表も出して来ようと思っています」

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