320 / 351

 ―― 幸せのいろどり(85)

「…… 新居?」 『そうですよ』 「…… どうして、そんなことを勝手に……」  ―― しまった……。 そう思った。  俺がぐずぐずしている間に、歯車は勝手に動き出している。  直くんに、自分の気持ちを伝えたい……。 そればかりを考えていて、先にしなければいけない事を忘れてしまっていた。 『どうしてって…… こういう事は男の人はなかなか腰が上がらないでしょう? だから美絵さんと相談して、もう随分前に決めていたマンションがあるんですよ』  それは、直くんとのことは関係なくて、自分で早く美絵さんに伝えなくてはいけないこと。  ―― 『好きなんです。 親が決めた縁談だけど、初めてお会いした時から……』  あの夜、美絵さんの想いを、軽率な言動で踏みにじってしまっているのに。 後回しにしては、いけないことだった。  ―― 『透さん、私達…結婚するんでしょう?』  真っ直ぐに俺に向かって、言ってくれた人に俺は…… ―― 『そうだよ。……大丈夫、俺達は結婚するよ』  僅かに触れ合った唇と、言ってしまった言葉。  あの夜の自分の軽率さに吐き気がしていたのに、もっと早くに言わなければいけなかった。 ―― 美絵さんとは、結婚できないと。 『―― 透さん、聞いてるの?』  自分のやってしまった事を思い出して後悔していると、電話の向こうの継母の声が急に大きく俺の耳へ届いた。 「…… すみません、なんですか」 『だから、マンションに帰っても、もう何も置いていませんから、今夜は此方にお帰りなさいね』 「―― 分かりました」  継母の言う通り、今夜は実家に帰るしかない。 それに…… 今後の事も、ちゃんと話をしなければならない。  直くんに、想いを伝える前にやるべき事は、自分に関わる問題に正面から向き合うこと。  見えている問題を見えないふりをしたり、逃げてばかりしていた自分に決別する為にも。  ***  実家の父の書斎の前で、小さく深呼吸をして扉をノックすると、中から、「どうぞ」と短い返事が返ってくる。  中に入ると、重厚感のある机の前に座って何やら本を読んでいる父の姿があった。  俺に背中を向けたままの父から、「帰ってたのか」と呟くよう声が、部屋の入り口の前に立っている俺のところまで、小さく、それでもはっきりと届く。 「…… はい」  本のページをめくる音と、時計の針の音しか聞こえない静かな部屋。 「珍しいな、透が自分からこの部屋に来るなんて」 「…… 話したいことがあります」  いつの頃からか父のことを避けるようになって、こうして自分から話しかけるのは久しぶりだ。 「ほう……」  パタンと小さく本を閉じる音がして、父の椅子がくるりとゆっくり回転する。 「…… それはまた、珍しいね」  俺の方へ向き直った父と、何年かぶりに視線が合う。  ―― この人は、こんな瞳をしていただろうか。  俺を見つめる父の瞳は、記憶していたのとは違って見えた。

ともだちにシェアしよう!