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―― 幸せのいろどり(88)
「…… 美絵さん……」
まさか、ここに美絵さんが居るとは思わなかった。
「そんなに驚かれるとは、思いませんでしたけど……」
玄関先で固まってしまっている俺に、少し苦笑しながら美絵さんは、取り敢えず入ってくださいと、ドアを大きく開けた。
建ったばかりの真新しいマンションの部屋は、新築の匂いが微かにしている。
もういつでも住めるように各部屋には、カーテンや家具、電化製品なども既に綺麗に配置されていた。
「お義母様と一緒に選んだんですけど、お気に召しませんか?」
「…… あ、いえ……。 こんなに揃っているとは思っていなかったので……。 あの、俺の荷物が昨日届いたと思うんですが……」
「あ、はい。 勝手に触ってはいけないと思って、皺になってはいけないスーツ等以外は、まだダンボール箱に入れたままなんです」
そう言って、美絵さんは書斎へ案内してくれた。
そこには、幾つかのダンボール箱が部屋の端に置かれていて、造り付けの本棚が壁一面に広がっていた。
とても使いやすそうな、りっぱな書斎だ。 …… でも俺が此処を使うことは、この先無いのに……。
「今、お茶をお淹れしますね。 お荷物の整理は、後で私もお手伝いしますので」
にっこりと微笑む美絵さんに、心が痛む。
「美絵さん……」
キッチンに向かおうとするところを呼び止めると、美絵さんは「はい」と、返事をして立ち止まって振り返った。
「……」
「どうなさったんですか?」
思わず口篭ってしまった俺に、小首を傾げて不思議そうな顔をしている。
「…… お茶は、いいです。 今日は美絵さんに大事な話があって、大阪に来たんです」
「…… 大事なお話……」
リップグロスの綺麗な薄いピンク色の唇が、俺の言った言葉を繰り返して小さく動く。
そこで言葉を区切って、俺を見つめる瞳は、今にも泣き出しそうに見えた。
「…… 大事なお話って、私にとって嬉しいこと?そ れとも…… 悲しいことですか?」
―― ああ…… 美絵さんは、きっと気付いていたんだ。 と、思った。
俺が、彼女とちゃんと向き合おうともせず、愛も感じていないのに、結婚しようとしていたことを。
「あ、あの私、やっぱりお茶淹れますね」
美絵さんは、俺から目線を外し、パタパタとスリッパの音を立てて、キッチンへ向かう。
俺も後から書斎を出て、ダイニングテーブルの椅子に座って、キッチンの様子を気にしながら、お茶を淹れてくれるのをただ待っていた。
誰かを本気で好きになるなんて、思っていなかったけれど、自分にもそんな気持ちになることがあるなんて、思っていなかったけれど。
でも…… 今は、大切にしたいと思う気持ちを知ってしまったから。
だからこそ、美絵さんに本当の気持ちを言うのが辛い。
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