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―― 迷う心とタバコ味の……(8)
時間ぴったしに上がらせてもらって、私服に着替えて、従業員出入り口から外に出ると、透さんが、車のドアにもたれて立っていた。
「お疲れ様」
いつもの優しい笑顔で、「どうぞ」と、助手席側のドアを開けてくれる。
その動作が気障でもなく、あくまで自然で、彼女にいつもこんな風にしてあげてるんだろうな…、なんて考えると、ちょっと胸の奥がチクンとして、わけの分からない胸の痛みに、心の中で苦笑してしまう。
「直くん、嫌いな食べ物って、ある?」
エンジンをかけながら、こちらを向いて訊いてくる。
「いえ、基本なんでも食べます」
「じゃ俺、天ぷら食べたいんだけど、いいかな? 実は、待ってる間に、予約入れちゃったんだ」
と言いながら、透さんは、ゆっくりと車を発進させた。
天ぷらのコース料理を予約してくれたらしくて、俺、今まで晩飯予約なんてしたことないし、なんだか緊張してきた。
「俺、天ぷらなんて、外で食べるのって、初めてかも…… しかもコースって高いんじゃないですか?」
そうでもないよ、と透さんは笑って言うけど、店に入って、メニューを見たら、大学生の俺には贅沢な値段だった。
「そんな顔しなくて大丈夫だよ、給料出たところだし、奢らせてね」と、くすくす笑いながら、俺の手からメニューを取り上げる。
「す…… すみません」恐縮してしまう。
「あの、次回は、俺にも何か奢らせてくださいね?」
「えー、いいよ、そんな気を遣わなくても。 俺は社会人で、直くんは学生なんだから」
そう言って、透さんは俺の頭に手を置くと、ぐしゃぐしゃと掻き混ぜるように撫でる。
「今日はなんだか、ここの天ぷらを食べたかったんだよ。 ほら目の前で揚げてるのを見るのも楽しいでしょ?」
カウンター席の俺達の目の前で、天ぷらを揚げてくれていて、もうそれは、なんて言うか、職人技で。
ぱっと、油に入れた瞬間に広がる衣が美しくて、芸術品だーーなんて、興奮してはしゃいでしまう、俺。
そして、揚げたての天ぷらは、絶妙な温度で、サクサクしていて、それでいて、ふわりとしている感じ。
「美味いーっ!」
もう今まで俺が食べていた天ぷらだと思っていた食べ物は、何だったんだろう? と、思ったまま、透さんに感動の気持ちを伝えると、「気に入ってもらえて、よかったよ」と、ニコニコと笑顔で応えてくれる。
海老やら、魚介やら、野菜の、おまかせ天ぷらを10品以上は食べて、口直しのサラダが出てきた後、最後に天丼と赤だし。
お腹も気持ちも満足して、店を出た。
「透さん、ごちそうさまでした、すごく美味しかったです」
「美味しかったね、直くんが美味しそうに食べてるのを見るの好きだよ、また来ようね」
そんなことを、目を細めて優しい笑顔で言ってくれるから、
「はい!」なんて、図々しく返事しちゃう。
車に乗り込んで、エンジンをかけながら、「この後、どうする?俺の家で良い?」と、透さんが訊いてきた。
そうか……、この後 家、って言う事は…… やっぱり……、そういう関係を続けるってことで……。
ここで行かないって言えば、もうそれ以上の関係にはならなくて、またあのイブの日までの関係に戻るだけなのかもしれない。
―― ただの店員と客の関係に……。
透さんが俺のことを、どう思ってるのかは分からない。俺も透さんのことを、本当はどう思っているのか……。
でも、行けば、それを確かめることができるかもしれない。
「はい」
これは自分で決めたこと。俺は、首を縦に振り、頷いた。
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