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第1話
秋も深まる十月の半ば。
何でもない一日が、恋人のおかげで特別な日に変わる。
「こんばんは」
「いらっしゃいませ」
八城 周一 が仕事帰りに訪れたのは、近所の小さな花屋だ。
ニコニコと微笑むここの店主らしき女性を前に、男は気恥ずかしさを感じずにはいられなかった。
「あの…えっと」
花を買うなんて生まれて初めてだ。と言うか、そもそも今まで花屋を訪れたことは一度もなかった。
毎朝この店の前を通っているにも関わらず、八城はかなり緊張してしまっていた。
動揺を隠せない男を見て、女性は何か閃いたように目を見開く。
「もしかして恋人へのプレゼントですか?」
ズバリ言い当てられ、八城は素直に認める他なかった。
「赤いバラを三十五本、頂きたいんですけど」
「赤バラね。…数があるといいんだけど」
店の奥の方へ向かった女性は、バケツに入った真紅のバラの本数を数えているようだ。
バラの花束を恋人へ渡すなんてことを知られてしまい、笑われるかと思っていた。バブル期でもあるまいし、こういうのは流行らないだろう。
「お客さん!ちょうど三十五本、ありました」
八城の頼みを笑いに変えるどころか、彼女はどこか嬉しそうだった。
良かった、と思わず安堵の言葉が漏れる。
「今からラッピングさせていただきますので、しばらくお時間頂いてもよろしいですか?」
「えぇ。もちろん」
「あ…そうだ。もし誕生日とかなら、通りの向こうのお店でケーキくらいは買えますよ」
「あいにく僕の可愛い人は甘いのが苦手で…」
「あら…そうなんですか」
「だから、美味しいお酒でもいっしょに飲もうかなって思ってるんです」
「それはいいですね。絶対喜んでくれると思います」
慣れた手つきでラッピングを施し、あっという間に花束を完成させる女性に感心せずにはいられなかった。
「わぁ…綺麗ですね」
「でしょう?ところで、赤バラの花言葉は何だか知ってる?」
「…花言葉、ですか?」
「愛情・美・情熱…。もう一つはご自身で調べてみて」
花束が入っている紙袋を手渡しながら彼女はそう言う。悪戯な笑みを浮かべて。
「今日はありがとうございました」
「いえ。素敵な一日にしてあげて下さいね」
店を出る頃には もうすでに日は暮れていた。
花束を渡す相手である神崎 慎 と付き合い始めて、今年で七年目。そして、同棲を始めて三年目になる。
彼の誕生日を祝うのも今日で七度目。回数を重ねる毎に、特別なことはしなくなっていった。
今年も特別になにかするつもりはなかったのだけれど、今回花束を贈ろうと思ったきっかけは、ほんの些細なことだった。
三ヶ月ほど前、二人でテレビを見ていた時のことだ。
『プレゼントに貰って嬉しくないものか…周一、なんだと思う?』
『うーん…花とか?枯れちゃうし』
『えぇー。周一って全然ロマンがないよね』
『普通だよ。ほら、花束は第二位だって』
『…僕は結構そういうの好きなんだけどなぁ』
『随分ロマンチストだこと』
『もー、からかわないでよっ』
この時は大して気にしていなかったが、慎の誕生日が近づくにつれ たまにはサプライズをしてあげようという気になったのだ。…そして、今日に至る。
八城は帰路の途中にあるスーパーに寄り 高めの日本酒を買って家へ向かった。
今日の午後は休みだと言っていたから、もう帰っているはずだ。
『慎。俺明日帰るの少し遅くなりそうだわ』
『…そっか。わかった』
『悪いな』
前日についた小さな嘘。もちろんサプライズを成功させるためではあったけど、慎の悲しそうな顔を見ると罪悪感に駆られた。
時計の針は六時ちょっと過ぎを指している。遅いどころか、今日は定時に上がることができたので普段より早い。
「そうだ…」
花言葉はちゃんと調べておかないとな。
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