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第1話

 予報では暖かい一日となるはずだったが、夕暮れとともに吹き始めた風はずいぶん冷たかった。帰宅ラッシュの電車に揺られながら、夜の向こうに映る自分をぼんやりと眺める。窓ガラスに反射した、つまらなくも面白くもなさそうな、くたびれた男の顔。一房落ちた髪が輪をかけて惨めで、それを撫でつけながら胸の内でため息をつく。すぐ隣でスマホを弄っている男子高生をなんとなく視界の端に入れては追い出し、考えてるのは、自分が彼ほど幼かった頃のことだ。  十八の時、一回りと少し上の男と付き合っていた。援助交際なんていうのが流行り始めた頃だったが、真剣な恋愛だった。今思えば、あんな子供をつかまえて真剣に恋愛をしようだなんて、ろくな大人ではなかったと思う。悪い人ではなかったが、好きな小説の話も難しい政治の話もできない彼との関係で、おぼえたのはセックスの気持ち良さだけだった。  それからずいぶん……本当にずいぶん長い時間が経って、四十を越えた自分は、一回りと少し下の男と付き合った。あの時の男と同じ、今度は自分がろくでもない大人になる番だった。やはり好きな小説の話も刺激的な思想の話もできず、セックスに夢中になるだけの関係だった。  やや性急なブレーキとともに電車が止まり、すらりと痩せた青い身体と制汗剤の香りを振り払って、押し出されるようにホームへ降り立つ。  改札を出た先に広がる夜は、寒々しくきらめいている。重い曇天をちらりと仰ぎ、直樹は足早に歩き出した。  一月前、恋人が出て行った。  理由は、別れようと彼へ告げたから。  この部屋の名義は自分なのだから、出て行くのは彼。ただそれだけの理屈だ。  二人で住むには手狭だと引っ越した今の部屋は、一人で住むにはどうにも広い。玄関に彼の気に入りの革の靴べらはもうなく、スリッパも一人分。リビングのソファにはオレンジのクッションしかないし、寝室のクローゼットはすかすかだ。お互い会社勤めのサラリーマンだったから、靴下は苦肉の策でブランドを分けていた。自分はラルフローレンで、彼はバーバリー。決めたはずのルールを平気で破って、直樹の靴下に穴を開けては嫌な顔をされていた彼が、きっちりバーバリーだけを選んで持って行ったことにしばらく経って気づいた。家の中にあった彼の持ち物を、マグカップも、シェーバーも、コロンも、彼は全て持って出て行ったのだ。 「室長、今からですか?」  背後から呼び止められて振り向くと、三人の部下がにこやかに立っている。 「ああ、うん」  このタイミングで上司を見つければ笑顔にもなるだろう、なんて自虐じみたことを考えながら、直樹は彼らへ向けて肩を竦めてみせた。 「きみらも?」 「ええ。ご一緒してもいいですか?」 「いいよ。ただし、あんまり高いものは頼むなよ」  そんなつもりじゃあ、と邪気なく笑う部下と連れ立って、ビルを出る。さて、昼飯を奢るのも上司の勤めというわけか。 「どこにする?」 「室長は?どこ行くつもりでした?」 「歩きながら考えようと思ってた」 「候補は?」 「蕎麦かカツ」 「極端ですね」 「そうかな」 「室長っぽいですよ」  すぐ近くに停まったフードトラックがカレーの芳香を放っているが、今日は気分ではない。ここのところコンビニ続きで飽きているし、やはりうまい蕎麦が食べたい気分だ。信号二つ先の通りまで足を延ばし、さらに奥へ入る。目当ての店は繁盛しており、店先でしばし案内を待つことになった。 「室長」  会話の中でそう呼ばれるたび、別段野心もないまま中間管理職を過ぎ、今もう管理職のポストに就いてしまったのだと実感する。気分は良くも悪くもなく、ただ、ああそうなんだなあ、というだけのこと。新入社員の頃から知っている後輩も今は課長職、もう二人も、若い若いと思っている内にいつの間にか責任ある立場になっているのだから、それより年上の自分がそれ以上の責任を負う立場なのも仕方のないことだろうか。 「お待たせしました、お席にご案内します」  慌ただしくテーブルの片づけを終えた店員に呼び込まれ、店内を奥へ進む。入れ替わりに立ったのだろう、レジで会計をする似たようなサラリーマンの三人連れを見て、いや、三人連れのうちの一人が自分を見て、凍りついたのがわかった。背の高い、しっかりと重心を取るような均整の取れた立ち姿の、年若い男。 「なお――」  と、形の良い唇が声なく動く。  何十、いや、何百の企業がひしめくビジネス街だ。同じ街に勤め先があるというだけで、昼時に出会うことなどまずないはずだった。実際に、今まで、待ち合わせもしないのにこんなふうに会うことなんて一度もなかったというのに。  再び、彼の唇がうっすらと開く。  喉からせり上がりそうになる音、彼の名前を呑み込んで、直樹は他人の顔で彼の横をすり抜けた。

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