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第2話
洋平との出会いは二年ほど前の、大きなホテルの会場を貸し切った異業種セミナーだった。彼は上司と、自分は部下と出席していた。たまたま同じテーブルになって、たまたま名刺交換をして、なぜか休憩中にトイレで口説かれた。俺もなんです、とか言って笑っていたが、彼がゲイだなんてことはどうでもよく、仕事にプライベートを持ち込むような人間は嫌いだった。
それなのに。頻繁に寄越されるメッセージ、週末ごとのデートの誘い、会えばひたすらに直樹を褒めそやす。アプローチというのはああいうことを言うのだろう。ほだされた自覚が芽生えた頃には既に、彼なしではいられなくなっていた。
味なんてわからないとわかっていたのだから、鴨南蛮などではなくただの盛り蕎麦にでもしておけばよかった。
「ごちそうさまです」
「どういたしまして。午後も働けよ」
「室長のためなら」
「そういうのはいいから――ごめん、先戻ってくれる?」
「どうしたんです?」
「ちょっと寄る所があったんだ」
「アポ入ってますよ」
「わかってる」
「あの人。室長じゃないとあしらえないんだから、頼みますよ?」
「自分であしらえるようになりなさいよ」
冗談混じりに叱って、店先で部下と別れる。
寄りたいところなどもちろんない。ただ、少し離れた所から放たれる射るような視線が、これ以上知らぬ振りで通すことを許さないのだ。首からぶら下げた社員証は、無精に胸ポケットに突っ込んだまま。肘まで捲ったワイシャツから覗く腕は健康的に焼けており、スポーツマン然としている。笑いかけた相手を簡単に懐柔してしまう明るく嫌味のない顔立ちは今、冷たい仮面のようだ。
「直樹さん」
低く押し殺した、不機嫌の滲み出る、触れたら弾けてしまいそうなヒステリックさを含むトーン。洋平のこんな声を聞くのは初めてだった。
「……昼休み、終わるんじゃない?」
「第一声、それなんだ」
「……元気、だった?」
「元気なわけ、ないでしょ」
「そう」
「あんたのせいで、ずっと、ろくに眠れない」
「……そう」
「あんたが俺を、さんざ弄んで、あっさり捨てたせいで」
「洋平、声」
焦って翻した手のひらで、彼の口を塞ごうとでも思ったのだろうか。空を切ったその手はしかし、下ろすより先に洋平に掴まれる。一本奥まっているとはいえ人の多い通りだ、大人が二人小競り合いをしていればあまりに目立つ。
「洋平、離してくれ」
手首に巻きついてなお余る、長い指の感触。骨が軋みそうなほど痛い。
「ねえ、直樹さん。俺を捨てて、次は誰を選ぶの?あの三人の中にいるの?若い男なら誰でもいいの?」
「頼むから……こんなところで、そんな話」
「ここじゃだめなら、どこならいいんだよ。どこなら話聞いてくれるの。番号もアカウントも全部変えてさ、そんなに俺が嫌いになったの。俺がいったい、何したの」
堰を切ったように言い募る洋平の声から、血走った目から、辛みのあるコロンの香りから、首を振って逃れる。
優しすぎて頼りないくらいだった彼の、憤怒の姿は見知らぬ男の恐ろしさがある。一方的に突きつけた別れを、彼はいまだ受け入れられず、ひどく自分を恨んでいるのだ。
――だから、会いたくなかった。会いたくなかった。
「ふ」
「……なに。なんなんだよ、なんで笑ってるんですか」
唸るように言われて初めて、気持ちが溢れてしまったことに気づく。
「洋平」
「……なに」
「好き、だ」
口の中で呟いたそれが、舌先をじわりと痺れさせた。
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