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第3話
先に直樹が帰っているとわかっていると、洋平は鍵を使わずにチャイムを鳴らすことがあった。少々煩わしいと思うこともあったし、呼びかけられているようでくすぐったく感じることもあった。
今は、どちらでもない。
チャイムの余韻が耳の奥に残る錯覚に囚われながら、ドアを開ける。
正面には、均整の取れた立ち姿。
「ただいま、かな」
不安そうに言う彼には答えず、腕を引いて迎え入れる。
じゃあ、と言って別れただけの昼間。約束をしたわけではなかった。しかし、今夜彼が訪ねてくるのを確信していたし、それ以上に望んでいた。
形の良い唇が目蓋に降り、鼻に、そして唇に触れる。すぐに触れ合うだけでは済まなくなり、内側の柔らかいところを合わせて、湿った舌を吸う。ああ、外でだけ煙草を吸う彼の、苦くてえぐい唾液の味。
少し癖の強い髪に指を入れて引き寄せると、力強く腰を抱き返される。寝室までの短い廊下を、下手なワルツを踊るように絡み合いながら歩いた。
どさりとベッドに腰掛け、口付けの隙間から言葉を交わす。
「今、どこに住んでるの」
彼が告げたのは、一駅手前のウィークリーマンションだった。
「住み心地、最悪だよ」
「そう」
「その、さ。帰って来ても、いい、の」
「洋平が、いいなら」
「俺は、だって、最初から出て行きたくなかった。のにさ」
「ごめん」
「なんで、別れようなんて」
「……好きだから」
「なんだよ、それ」
「これ以上好きになったら、いつかお前がいなくなるのに耐えられなくなると思った、から」
「……なんだよ、それ」
「好きに……なってしまった……」
深くため息をついた洋平は、じっと直樹の目を覗き込むと、やがて目蓋を閉じて一際深い口付けを施した。ぴちゃぴちゃと音を立てながら、乱暴にネクタイを引き抜いて、ワイシャツをくつろげる。そのうちに洋平はじれったそうにベルトを外しスラックスを放り投げると、屈み込んでダークグレーの靴下を脱ぎ始めた。
「それ」
「……ん?」
「俺の靴下」
小さくあしらわれた刺繍は、ラルフローレン。
「直樹さんの使ってたもの、どうしても、欲しくて」
俯いたまま笑う彼の、露わになった膝小僧に口付ける。チェストの中の靴下は、バーバリーだけがなくなっていたわけではないということだ。
「洋平……明日、誕生日だな」
「……憶えててくれたんだ」
「うん……」
「二十七か」
「まだだよ、まだ、全然、直樹さんに追いつけない」
「そりゃ。十五歳差は変わらないさ。はは、俺が十五の時にお前が生まれたんだな」
「笑えないよ。いつまでも、俺ばっかり未熟なままだ」
「俺は……お前よりずっと年上で……おじさんでさ」
もつれ合うように横たわりながら、腕と腕、脚と脚を絡める。
「怯んでしまうくらい瑞々しいお前が怖かったし、自分がすごく恥ずかしかった」
しなやかな胸板に手を這わすと、強く脈打っていて、押し返してくる弾力は若さそのものだと思う。
「白髪も出た。顔も、身体も、どんどん老けてく。どうやったってろくにお前を楽しませてやれないのに、こんな」
こんなふうに、彼を欲しがって身体が熟れる。
「うそ、泣いてる?」
狼狽えた顔は、頭の奥でぼやけて溶ける。恋人はとても感情豊かな男で、何かあると泣くのは決まって彼の役割だった。何度目の再放送かわからないお涙ちょうだい映画を見た時も、別れ話を切り出したあの夜も。
「俺、もっと直樹さんに安心してもらえるような男になりたい……けど、でも、ずっと泣かせてやりたいとも思う」
「……なんだよ、それ」
「あなたの泣き顔、すごく、興奮する」
その言葉を示すように、彼が下着を突き破りそうなほど膨らんだのが見える。瞬間、じわ、と、下肢から熱いものが滲み出る感覚があった。
「珍しいね」
彼が感じたように言うとおり、滅多にない粗相。隠す間もなく下着の染みたところを指の腹でこねられて、
「んっ……」
仰け反りながら鼻声を上げる。
「俺……直樹さんの身体が好きだ。ここも、ここも――ここも」
鳥ガラのような身体を丹念に愛撫されて、たまらなくなる。初めての相手じゃあるまいし、もっときれいな男と付き合ってきたんだろう?もっと若く、同じようなことで笑ったり泣いたりできる相手と。そんなことさえ、聞けないでいる。
「顔も好き、ずっと見てたい」
「あ……ようへい……」
「うん。声も、好き」
脇腹をさすられ、脚を開かれ、噛み締めた唇の隙間から喘がされる。
「本の話をもっとしてよ、俺もたまには読むから。その代わり、一緒に野球を見に行こう。案外楽しいって……うーん、たぶん」
茶化すように言って、何度めかもうわからない口付けを交わす。
重なり合って、嵐のように繋がった。
時間も重力も曖昧な真っ暗な部屋で、朦朧としたまま探し当てたスマホの時計は既に日付が変わっており、誕生日おめでとうと言ったはずのひしゃげた声をからかわれ、笑いながらまた抱き合った。
終わり
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