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1 誘い
私の電車通勤ルートの途中に、『泉葉橋 』という名の駅がある。
駅の北口を出れば、駅名と同じ『泉葉橋』という煉瓦作りの橋がある。都内の真ん中に位置する地域にしては、どこかレトロな雰囲気を持つその下では、寂れたスナックや飲み屋が軒を連ねている。私の行きつけの古本屋もその一部として存在していた。
錆びた看板と鼠色に変色した外壁を持つ店先に反し、店内は常に清掃されている。ジャンル別になっている棚に並ぶ本たちは、劣化による黄ばみや古めかしい匂いはあるものの、どれも最小限に抑えられているし、折り目も綺麗に伸ばされている。
今いる客は、『趣味』の棚でゴルフ雑誌を読みふける初老の男性だけのようだ。彼が雑誌を捲る音だけが響く中、私はフィクションの棚の前で、『今日の一冊探し』に専念していた。
二十年以上地味ながらも真面目に勤めている会社では、自分の存在価値を見いだせない。それを慰めてくれる家族どころか恋人さえもいない。友人と呼べる存在とは、もう十年くらい会っていない。
そんな私が唯一喜びを見いだせる瞬間が、この『今日の一冊探し』。
幼い頃から読書は好きだった。現実の自分とは大きくかけ離れた世界に生きる主人公の物語は、四十を過ぎた今でも心が躍る。
特に、恋愛小説が好きだ。
激しく降り注ぐ豪雨のような恋も、耳を澄まさなければ聞こえないほどの霧雨のような恋も。様々な形の恋愛はカラカラに乾いた私の心を潤してくれる。
今日手にしたのも、恋愛小説だ。裏表紙のあらすじによると、明治時代に生きる身分の異なる男女の不倫ものだ。
本を決めると、店内の奥にあるレジへ持っていく。と、同時に、私の後ろからぱたぱたと駆け寄ってくる足音が聞こえてきた。
「いらっしゃいませ」
その声に振り返ると、褪せた緑のエプロンを身に着けた青年がこちらへ駆け寄る姿が見えた。その爽やかな笑顔を見て、私の心の中で、きゅっと微かな音が鳴った。
「こ、こんばんは」
「こんばんは。本日は、そちらの本で?」
「ああ、頼むよ」
私が差し出した一冊を、彼は両手でしっかりと受け取る。一本一本の指が角張っていて、表面がつややかで真っ白な手。年がら年中乾燥していて、皺の目立つ私の手とは大違いだ。
「三百円です」
レジカウンターに入った彼が薄茶の紙袋に本を収めながら、私にその白い手を差し出す。私はくたびれた焦げ茶の小銭入れから取り出した三つの百円玉をそこへ乗せた。
彼が私の手を包み込むように、ぎゅっと握りしめる。思いのほか力強い温もりに思わず私の唇から「あ」と声が漏れてしまった。
微かなその音に反応して、彼はいたずらっぽく目を細める。
頬が熱くなるのを覚えながら、私は慌てて手を引っ込めた。
「……っす、すまない」
「いいえ」
そんな私を彼がにこにこしながら見つめているものだから、余計に恥ずかしくてたまらない。
「お買い上げ、ありがとうございました。また、お待ちしていますね」
差し出された紙袋を受け取ると、私はある一点に目を留めた。
紙袋の真ん中に貼られた、小さな長方形の付箋。そこには綺麗な文字が並んでいる。
〈南改札口 八時に〉
ちら、と彼の方を見たが、彼は変わらない笑顔をこちらに向けているだけだ。
だから、私も何も言わずに精一杯笑顔を返して、踵を返した。
二時間後の、南改札口での逢瀬に胸を躍らせながら。
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