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2 出会い
私が清水くんと初めて出会ったのは、今から三ヶ月前。
その日、いつものようにフィクション小説の棚で、『今日の一冊探し』をしていた私。そんな私の心を惹き付けたのは、本棚の上段にある『清く正しい交際』というタイトルのハードカバー本だった。本棚の横に設置してある脚立を使わずとも、手を伸ばしただけでその背表紙に触れることができたが、引っ張っても取れなかった。どうやら、同じ段に並べられた本に圧迫されて引き抜きにくくなっているらしかった。
――これは余談だが、清水くんがアルバイトとして働く前までは、この古本屋の本棚はどこもかしもぎちぎちに詰まっていた。今のように本を引き抜きやすく整理整頓されているのは、清水くんのお陰である。
私が諦めのいい人間だったなら、別の本探しに向かっただろう。だが、生憎私は本に関しては諦めの悪い人間だった。懸命に背伸びをして、両手で背表紙を掴み、ウンウンと唸りながら引っ張り続けた。
すると、幸運なことに、本が僅かながらもその姿を見せ始めた。この分ならもっと思い切り引っ張ればいける。そう確信した私は歯を食いしばり、思い切り本の背を引っ張った。
次の瞬間、目当ての本が引き抜かれた。ただし、目当てじゃない本も数冊、道連れにして。
『ひぁっ?!』
勢い余って床に尻餅をつく私。その上に降り注ぐハードカバーの本たち――その衝撃に耐えるため目を瞑った私だったが、いつまで経っても私の体に痛みは生じなかった。
あれ、おかしいな。本が何かに当たったような音がしたのに。
『大丈夫ですか?』
聞こえてきたのは若い男の声。ぱち、と瞼を持ち上げた私の視界に飛び込んで来たのは、穏やかな微笑みを湛えた二十代くらいの男性だった。肘まで捲った淡い水色のワイシャツの袖から伸びる腕は、まるで私に通せんぼうするような形をとっている。その足下を見れば、私の頭上に降り注ぐはずだったハードカバーの本たちが散乱していた。
『も、もしかして、君……本に当たって』
『僕は大丈夫です』
そう言って彼が両腕を下ろす。その腕の表面にはうっすらと赤い痕が刻まれている。
その痕を見た途端、私は微かに喉を鳴らしてしまった。
痛そうだ、と思うと同時に浮かんだのは、艶かしいという表現。
自分の頭に浮かんだその言葉に、私の頬がかっと熱くなるのを感じた。
『す、すまない、とんでもないことを……っ』
『いいんですよ。お客さんに怪我がなかったなら、それで。……ところで、そちらの本、お買い上げになりますか? レジまでご案内しますよ』
言われてふと自分の両腕に抱えていた本に視線を向ける。『清く正しい交際』の表紙は下着姿の女が全裸の男の性器を咥えているという卑猥なもので、中身を読まずともこの本が官能小説であることを表していた。
官能小説自体は嫌いではないし、読むことに特別羞恥心も感じない。が、この時は穏やかに微笑む彼に、表紙からも露骨に分かる官能小説を抱えて真っ赤になっていた自分を見られたことがたまらなく恥ずかしかった。できることなら、「いらない」と叫んで店を飛び出したかったのだが、彼に怪我をさせてしまった手前、そうもいかない。
『……お、お願いします……』
蚊の鳴くような声で答え、そっと顔を上げた私に、彼は笑みを深めて私に手を差し出したのだった。
その後、レジに向かう彼の背中や、レジ打ちをする彼の手や、金銭の受け取り時に触れた彼のぬくもりに私の心臓は煩く鳴り響き続けた。さっきの恥ずかしさを引きずっているせいだろうか。
(アルバイト……かな。確かこの店の店長は八十過ぎのおじいさんだったはずだし。こんな寂れた古本屋へバイトしに来るなんて、何か理由でもなければあり得なさそうだが……)
ドキドキと忙しない胸の音を聞きながら、私はじっと彼を見つめてみた。
眉の上で切りそろえられた前髪、左目の下の小さな二つの黒子、真っ白な肌、時折こちらを見る翡翠色の目、エプロンに付いた『清水』の名札、私を守るためについた赤い痕……全部残さず見ていたいと思ってしまった。
『ありがとうございました。また、お待ちしております』
『ありがとう。その、怪我、本当に大丈夫かい?』
『ええ。これくらい、何ともありません。お気になさらないで下さい』
ゆったりと微笑む彼に、私は口にしかけた言葉――お詫びに何か奢らせて欲しいんだが」――を苦い思いで飲み込み、頭を下げるしかなかった。
(こんなおじさんに食事に誘われたら、いくら詫びでも気持ち悪いだろう。今日の私はおかしいな。早く帰ろう)
踵を返し、数歩歩いたところで私は受け取った紙袋の下部に小さな付箋が貼られていることに気がついた。
〈一目見た時から、貴方に恋いこがれていました。
午後八時。泉葉橋駅南口でお待ちしています。清水〉
達筆な文字で書かれていたのは、ストレートな告白。
私がはっとして振り向けば、レジカウンターで彼がこちらを見つめている。私と視線が合うと、その唇を意味有りげに吊り上げ、そっと自分の人差し指を押し当ててみせた。
その彼の仕草に、私は再びこくり、と喉を鳴らした。
それが彼——清水くんと私の始まり。
あの付箋でのやり取り以降、私たちは度々こうして逢瀬を重ねている。
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