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第1話
無謀な冒険をするにはあまりにも歳を取りすぎてしまった。
ふと右手に滞る強烈な感覚を思い出しながら、僕は教卓に身を置く。
「よく見て、デッサンすること」
この学校に来て三年目になる冴えない中学校教員だ。歳は五十で専門は美術。
二十代前半のころ、二浪してやっと入った美術大学を出たはいいが、絵画系学科出身では食えるあてもなく、在学中に人生の保険として取得しておいた教員免許を活用し、今に至った。
とはいうもの、枠の少ない美術の教員採用試験は、免許を取得するのとは比べ物にならないほど、かなりの難関だ。自分でもよく採用されたなと思う。実技試験が良かったのか、面接試験が良かったのか、それはよくわからない。しかし、なれればこっちのものだ。こうして何の問題もなく二十年も続けられているのだから。しかも、こういった世界には少なからず派閥があって、一応そのどこかに在籍している自分は、年に一度、大規模な絵画の展覧会に小さく出展させていただく機会を得ている。そこでの交流や人脈のおかげで、小規模だが個展を開くことが出来たり、時には友人たちとグループ展覧会まで開くこともあって、芸術に生きる道を一旦捨てたわりには、なんだかんだでそれを中心に人生を送ることが出来ていた。
ただ、最初は仕方なく選択したこの教師という職業の中でも、時に興味を惹かれることがある。
「お、上手いね」
美術室を一周して、生徒たちの絵画を見回るなか、僕は一人の少年に横からそう声をかけた。
少年は驚いたように顔をあげる。顔立ちが驚くほどに整っていて、深い黒目がまんまるとして大きい。その純な瞳に吸い込まれそうになった。
「やった」
少年が小声で囁く。その笑みが眩しくて、僕は胸が綻んだ。
大内春矢ーー頭脳明晰、容姿端麗、スポーツ万能。女子生徒にはとても人気のありそうな少年だった。
僕が彼と会えるのは、週に一回のこの授業だけ。廊下ですれ違うこともあるけれど、互いに見向きもしない。地味で口下手な美術教員の存在なんて、結局その程度だ。中学三年の彼は、来年には美術なんか捨てて県内でも有数な頭のいい高校に入るだろう。
けれど、そうして道を違えるはずの有望な少年と、一時でも毎週顔を合わせられるのは、この教師の特権であった。
炎暑が去って涼風を呼び、ものの激しく鳴く声さえ、どこかへかき消えた頃、放課後、僕はいつものように美術室へ足を向けた。忘れた資料を取りにきたのだ。
三階廊下を一番奥まで歩いたここは、普段、授業以外ではほとんど人通りはない。美術部の活動は一階の工作室でやっているし、もう自室のようなものだ。私物だって沢山置いてある。美大を出ているというだけで、他の教員から『芸術家』というレッテルが貼られているため、良い意味で自分に対する当たりは緩く、とやかく言われることは少ない。
僕は中を覗いて驚く。身体に電気でも走ったかのように、前進する力を、ドアの間際で必死に止めた。
二人の男女が立っている。一瞬、何が何だか理解出来なかったが、時間が経つにつれてその光景を察せられた。
どうやら恋情を相手に伝えているらしい。女が男へかと思ったが、違う。男が、女の方へ伝えていた。
すると、女子生徒は頭を下げると相手の前から立ち去ろうとする。僕は慌てて、隣の準備室に隠れ入った。
廊下に響く、子速い足音がだんだんと遠のいて、最後はふっとかき消える。どうやら女子生徒は立ち去ったらしい。
僕はというと、美術準備室の中で息を潜めたままだ。絵画に染み付いた油絵の具の匂いが充満して、嗅覚を貪っている。僕からすると、この上なく心地いいものでしかないが。しかし、こんな窮屈な場所で体育座りなんてするもんじゃない。おかげで、足腰がじんじんと痛くなってきた。
もう我慢ならない。思い切って立てば、脚の痺れが痛覚を突き刺して、思わずもう一度しゃがみこみそうになった。僕は仕方なく勇気を振り絞って、準備室から美術部に内側から繋がる扉に手を掛ける。
ガチャリ、と扉が開き、のっそりと僕は顔だけを出した。とりあえず視察しようという魂胆だ。
しかし、まだ居残っているはずの男子生徒の姿がない。もしかしたら、僕が知らない間に出て行ったのだろうか。僕は安堵して、大胆な足取りで部屋へ入った。忘れた資料というのは初心者用のデッサンの教本だった。
教卓に置きっ放しにしていたそれを手に取ると、僕はカーテンや窓の戸締りをするために部屋の奥へと足を運んだ。机の角に来た時、何者かと目が合ってどきりと息を止める。
さっきの少年だ。
彼は机の陰に蹲って、見つかった、というように焦燥した顔でこちらを眺めている。普段の大人っぽくて自信あり気なあの表情からは想像がつかない。まるで、悪いことを仕出かした後の子供のように、その顔は臆病に血の気が引いていた。
「大内くん……。どうしたの? 」
そう。その男子生徒は、僕が好意を寄せているあの秀麗な大内春矢だった。
「すみません、先生。友達と隠れんぼしててーー今すぐ出ます」
我にかえったのか、彼はでたらめな理由を淡々と口にする。現場を見ていなかったら、危うく信じてしまっていただろう。
「何か悩みがあるのなら聞くよ? 」
僕はわざと、その嘘を見抜いたとわかるように言った。それほど意地悪に返したのは、言うまでもなくーー単に彼と話がしたかったからだ。
察知した大内は恥ずかしそうに目を逸らす。そして、見られてたんですね、と小さくバツが悪そうに呟いた。
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