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1.邂逅したのは地獄だった-1

 花屋の息子だからといって、花が好きとは限らない。甘ったるく青いかおり、びっしりと葉を覆う繊毛、光に舞って輝く花粉。俺はこれが嫌いだし、好き好んで他人に贈ろうとする気持ちも理解し難い。今まで恋人にしたやつらは、俺が花屋の息子だと知ると「きれいなお花」を期待した。でも俺は生まれてこの方自分で「きれいなお花」を仕立てたことはない。それは俺の仕事じゃないからだ。  うちの花屋。それは商店街で細々と仏花を売って暮らしてるような小売店ではなく、全国の駅やデパートにチェーン店を構えるそれなりに大きな企業だ。花屋というと父はいちいちフローリストと訂正するが、花屋は花屋である。お祖父さまが創り上げたこの企業が、俺が主に齧る脛であり、将来なにがしかの椅子が約束された場所。だから今日も、俺は花を売らずに油を売っている。まだまだ俺はモラトリアムなのだ。  暦上の夏になって久しい。ただ今年は残念なほど肌寒い冷夏である。  先日渋谷で知り合った女が急に会いたいと言い出したので、特に会いたくはなかったが予定もないのでOKと返信した。月曜日だからという理由でスーツを着ていたが、仕事でもなんでもなく、ただ月曜日だからである。ネクタイは胸ポケットに押し込んで、髪をかきあげてひと撫でしてから家を出る。待ち合わせに指定されたのは新宿で、電車移動も考えたが面倒臭いのでタクシーを呼んだ。どうせお支払い係になるだろうと少し重くした財布が煩わしくて、現金主義と鞄を持たない主義は共存できないんだなあとくだらないことを考えた。女の名前も正直うまく思い出せず、スマホに登録していたラベルは「渋谷のバー」、それから日付。そこまで入力したならもう少し頑張って名前をいれておくべきだ。だがその夜の自分に青筋を立ててもしかたがない。それとなく名前を聞きなおせばいいだろう。もしかしたら、名前はいらないことを、するのかもしれないし。どうでもいいか、と思考を放棄して窓の外をみれば、どうやら新宿は雨のようである。  タクシーの運転手に屋根のあるとこに停めてくれと頼むとぶっきらぼうな返事をされた。カスタマーサービスの質が低いな、と心中でお門違いの評価をする。それでも、完全に屋根の下から新宿駅舎に入れる完璧な場所に停車したこのタクシーは、きっと仕事のデキるタクシーなのだろう。  雨足は弱まるどころかどんどんひどくなっているようで、待ち合わせ場所の東口改札の柱に凭れていると、濡れネズミになった老若男女が通り過ぎていく。用意周到にレインコートを着ていた様子のマダムが、人混みでそれを畳んでいるさまを、若い女子大生が迷惑そうに睨みつけていた。傘を振りながら歩くサラリーマンに舌打ちするサラリーマン。駅員を詰るカタコトの日本語。お気軽な怨念が溢れてるここで、名も知らぬ女を待っている俺。雨だというだけで、いつでもここは地獄に変わる。  この豪雨で小田急線が遅延しているとアナウンスがかかり、とっくに通勤時間を過ぎたはずの構内がにわかにざわついた。胸ポケットのスマートフォンを取り出して、スリープを解除すればメッセージの通知がふたつ。 『雨が降ったから中止』という渋谷の女から一通、睦月と登録された父から『今日はお祖父様が来るので夕方までに帰宅せよ』という一通。雨天中止に門限って小学生のガキかよ、と思わず空いた左手で眉間を押さえたが、あながち間違いでもない。どちらのメッセージにも了解の二文字だけを返し、特に行く宛もない俺はなんとなく東口へ出る階段を上がった。  雨はなかなかひどいもので、待ち合わせが中止にならなかった雨宿りの人間が犇めいていた。傘を持ってないことに思い当たり、為す術のなさにもう一度眉間を押さえた。しかたがない、駅ビルのカフェにでも入ろう。その前にうちの花屋でも冷やかすか。タクシーを呼んですぐに帰宅してもよかったが、とんぼ返りする気にもなれなかった。しかしこのゲリラ豪雨の様子じゃどこもかしこも避難民で溢れてるのだろうな。  人混みをかきわけるように、花屋とカフェに向かうほうへ進む。この半階上に花屋があって、さらに一つ上がカフェだ。人より少し体格に恵まれているので大した苦ではないが、ああ、いま恨みを買っているなあという心持ちである。知ったことではないが。  ほんの数段しかない階段の元に辿り着いたとき、不意に鮮やかな黄色が視界に現れて一段目にかけた足が止まった。後ろに続いていた男が避けそこねて背にぶつかったが、なにか言い捨てて抜かしていった。しかしそんなことは些事だ。見上げたその黄色は、暗雲立ち込める新宿では鮮やかすぎる向日葵のブーケだった。ご丁寧に揃いの黄色いリボンがかけられている。この地獄に差した一筋の光条のようである。 「向日葵、お好きですか?」  向日葵越しに降ってきた声に、俺は年甲斐もなく気恥ずかしくなってしまい、少し息をすっただけで返事を返せなかった。  黄色に見惚れてしまったことも、その声があまりに綺麗だったことも、その声の主の男の面貌が美しかったことも、自分という生物の未完成さを強調されたようで急に恥ずかしくなったのだ。泥でグズグズに汚れたこの階段をこの男が降りることすら想像できない。見慣れない黒の長衣に黄色が映えて、警告を示しているようでもあった。嫣然と笑って俺を見下ろすこの男を守るような黄色。点字ブロックの黄色。  ああ、いえ、と乙女のような声量でなんとか答えると、そうですか、と先程と同じトーンで声が返ってくる。革靴の底でジャリジャリと泥が鳴った。生き様もスラックスの裾も汚れている俺。階段を一段とばしで、ただしゆったりと登り、”向日葵の君”の横にたどりつく。  特別小柄でもないが、横に並ぶと華奢な印象の男である。向日葵の花が少し大ぶりに感じる、顔が小さい。初対面の人間を不躾に観察して、その上思わず「綺麗だ」と呟いて、しまったと思った。三度目の眉間。しかし、ドン引きされるでもなく怒られるでもなく、向日葵というよりは百合のような笑みで俺を見上げて「ありがとうございます」と言う。 「そこの花屋で買いましたよ、まだあるとおもいます。あ、あちらの方が繕ってくださって」  哀しいようなありがたいような、完全に向日葵への感想だと思われたようで、すぐそこで不安そうに俺をみていた花屋の店員を指さした。まごうことなきうちの花屋である。見知った顔の店員が青い顔をしている。自分の手落ちを不安視してるのか、この男のことでなにか思うことがあるのか、俺に対して言いたいことがあるのか判別付きかねるが、とりあえず放っておく。  普段なら男だろうが女だろうが、良しと思えば何も考えずに口説いては済し崩しに肩を抱いて歩きだす俺だが、なんと言えばいいか、この男は別種だった。そういう類の感情、ではない、とも言い切れなかったが、そうだとも言えず、まさに煮え切らない。こんな風に初恋を拗らせたような気持ちを急に見つけてしまい、戸惑いすらおぼえる。 「迷っておられる」  急にワントーン下がった彼の声に、えっ、と間の抜けた反応を返してしまう。後も続かず目を何度か瞬いて、俺の心を見透かすように彼の右目が微かに眇められていた。俺がこの先を求めることを迷っているのか、もしくは縁を繋ぐこと自体をか。彼はにこにことしているにも関わらず、急に冷ややかな空気を感じてさっと鳥肌がたつ。向日葵が冷気に中てられて枯れてしまいそうだなと、ありえないことを考えている俺の目は、わかりやすく泳いでいるだろう。  こうしている間も俺たちの周りをたくさんの人間が過ぎ去っていく。俺のスーツにはお構いなしに泥水を撥ねさせていくが、向日葵を抱くこの男には細心の注意を払っているような素振りさえ見せた。ただ、それが単なる美しさへの敬意なのか、彼のもつ独特の空気が畏怖させているのかは判別つきかねる。くるぶしのあたりがひんやりしている。誰かが革靴のかかとをこすっていった。 「向日葵を買うことを迷ってらっしゃるなら、あなたには似合いませんよ」  大輪の向日葵の束に、すっと鼻先を沈めたあと、人の良さそうに笑って言った。さっきの一瞬はなんだったのだろうか。そもそも初対面であることを鑑みれば、この距離感での対話もさもありなん、なのかもしれない。 「百合なんて、よろしいのでは」  思わず心臓が跳ねた。本当に思考をよまれているような気持ちだった。 「あいにく、花が得意ではなくて」  情けない声で情けないことを言った。男は少し驚いたような顔をして、やっと同じ人間だったかと腑に落ちる。あまりに完成された造形は人形めいた印象を抱かせる。生きている美しい男の緑の黒髪と、切れ長の双眸が、人波に揺れて、黄色を反射していた。 「そうなのですね。てっきり、お好きなのかと思って」 「ああ、いや」  あなたにみとれていたんですよ、と言いそうになってとまった。流石にクサくないか? 初対面の男に男が「みとれていました」? 気が違っている。とりあえず微笑んでみたが、マヌケなことこの上ない。急に何もかもが上手にできなくなって、みたくれだけそのままで、高校生に戻ったようだった。むしろ高校生の頃の俺のほうがうまくやっただろう。 「に、二条常務……」  いつの間にか俺達の横までやってきていたのは、うちの花屋の店長で、真っ白の顔で俺を見上げていた。気の弱い小男は、目の前の向日葵の君と俺をちらちらと見比べて今にも過呼吸を起こしそうである。やはり自分の落ち度があったのではないかと心配だったらしい。  とりあえず、と父から俺に与えられた肩書を呼ばれ、急に意識が現実に戻ってくる。 「二条常務?」  美しい声に名を呼ばれると、小男から震える声で呼びかけられるのとは万倍心持ちがかわるな。感心している場合でもないのだが、いちいち行動に感情が左右されてしまう。 「なんでもないよ、ただ向日葵がきれいだったからね」 「あっ……え?」  俺の花嫌いを知っている店長からしたら、それはもう珍しい感想だろう。目を白黒させたあと、左様でございますか、と呆けた声が言った。そのまま目の前の男に「またよろしくおねがいします」と頭を下げ、早足で元の位置に戻っていった。  すこし気まずくなって、少しの沈黙。それを振り払うように、俺は内ポケットに入っていた名刺入れから「二条フローリスト」のロゴの入った名刺をとりだして、向日葵の君に差し出した。肩書は常務。俺の名前は二条皐月。名刺には書いてないが今年二十八のアラサー男。 「いや、名乗りもせずにすみません。そこの花屋の関係者で、二条です」 「お身内の方だったなんて、私ったら余計なことをペラペラと……」  彼は名刺を受け取り、気まずそうに笑う。 「二条さんのところに、いつも教会のお花をお願いしているんですよ」  それから花束を片手で抱え直し、黒いジャケットの右ポケットからシンプルなアルミの名刺入れを取り出した。器用に花を抱いた手も使って名刺を取り出すと、片手ですみません、と言いながら空いてる方の手で少し小さめの名刺が差し出された。 「上永谷と申します。三丁目の駅から上がった百貨店の方の、少し奥に教会があるのはご存知ですか? そこで神父をしています」  神父。出で立ちや、まとった雰囲気の独特さは聖職者だからだろうか。神父であるという情報を得たことで、彼を見る目が急に変わる。特に悪くなるというわけではなく、自分の身の回りにいない職業人であり、もっとも自分から遠い存在であることを認識したのだ。俺は神父と牧師の違いも曖昧だが、一応何を信じているか程度の知識はある。いや、知識があると思っているのは自分だけで、実際は違うかもしれない。  あいにく教会の存在は知らず、彼の言う百貨店はよく使うのだが、そのあたりに教会などあっただろうか。自分の生活圏にぞっとするような美人が暮らしていたとは、と自分でも呆れるようなことを考えて残念な気持ちになった。名刺には、司祭・上永谷瀬人、と美しい書体で印刷されている。年下なような気もするが確証はない。 「上永谷神父!」  未だに人間が蠢く東口で、向日葵の君、上永谷神父を呼ぶ声が響く。上永谷神父の金糸を弾くような繊細な美しい声とはまた違った、きれいな声だった。叫ぶような呼びかけだったにも関わらず、丸く柔らかいその声はいっそ心地が良い。人混みをかき分けるようにして現れた声の主は純朴そうな青年で、短い黒髪が湿気に少しハネていた。生来のものか、眠たそうな顔をものすごい顰めてこちらに近づいてくる。傘を二本抱えてずんずんと階段を登ってくると、俺と上永谷神父の間にたち、あからさまな敵意をもって俺を睨んだ。親を守る子のようでたいへん微笑ましいが、睨まれる筋合いはない。おそらく。 「遅くなってしまい申し訳ありません。車を回してきたので、こちらに」 「よしみちくん、この方は二条フローリストの方ですよ」  教会へ納品しているとは知りもしなかったが、どうやらお得意先のようだった。完全に俺のことを無視して上永谷神父を連れ出そうとしたこの青年は、諦めたようにため息をついたあと、俺に向き直った。 「いつもお世話になっております」  これで文句はなかろう、とでも言いたげな刺々しさが合ったが、俺はいい大人なので笑顔で対応する。実際のところ割りとかちんと来ていたが、いい大人なので我慢する。 「中央東口の方を回って、車止めまでいきましょう。そちらで車が待っていますから」 「タクシーでよかったのに……」 「近いんですから、お気になさらずに」  向日葵の花束を自然とうけとり、荷物をすべて引き受けると、もう一度青年は俺を鋭い視線で刺した。お前はこの男の騎士かなにかなのか。あながち間違いでもなさそうだが、面白くはない。 「二条さん、よかったら今度遊びにいらしてください。向日葵、飾りますし」 俺が未だに向日葵に見とれたと思っているのか、麗しい笑顔とともに上永谷が言った。そのままよしみちと呼ばれた青年が促すまま、階段を降りていく。二段降りたところで足を止め、またあの冷ややかな空気を纏いながら振り返った。雑踏の中透き通る声で言う。 「春ならいつでもさしあげましょう」 続

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