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1.邂逅したのは地獄だった-2

 捨て台詞のように「絶対来るなよ」と口パクでダメ押ししてきた青年は、神父が俺に放った言葉の意味を理解できるのだろうか。それとも理解できるからこその、絶対来るなよ、なのかもしれない。雨の地獄で出会った天使のような男は、まさに神のみ使いだったわけだが、もしや思っているほど清廉潔白ではないのか? そんなことを悶々と考えながら、カフェにも行きそびれ、タクシーも捕まらず、父親の車に拾ってもらうという散々な体たらくで帰宅した。  祖父が青山の本邸に帰ってくるのはめずらしく、いつもは藤沢の別宅で花畑にかかりっきりだ。今年の冷夏で、おそらく例年通りの種子の収穫とは言えないだろう。各地に温室施設を持っているとは言え、一番大きな神奈川の温室がダメになると少し事情が変わってくる。それもあってなのか、なにか別の事情があるのかもわからない。男三世代が顔を突き合わせて飯を食うことが、まったく楽しくないことはわかる。女手が家政婦しかおらず、今日家を出る時は居なかったような気がするが、帰宅すれば玄関で出迎えられた。肩の濡れた俺をみて「行き掛けに傘をお渡ししたかったのに、上の空で気づいてくださらなかったから」と残念そうな顔をする。俺も残念だが、傘があってもなくてもスラックスの裾はしとどに濡れていただろう。  玄関の三和土にはすでに祖父のものと思われる泥除けの付いた下駄。神奈川はもっとひどかったらしい。先にお風呂をご案内しました、と家政婦が言うので、俺も着替えてきますと自室に退いた。  ポケットに、少し湿った名刺が一枚。すでに何度も脳内で反芻した。上永谷瀬人、それからあの青年。とても同じ世界の人間とは思えなかったが、名刺は確かに本物だった。着替えをさっさと済ましてリビングに降りると、祖父どころか父もまだいない。柔らかい革のソファに腰を下ろして、スマートフォンの検索窓に「神父」といれる。エンターを押す前に消して「新宿」「教会」と打ち直して検索した。確かに少し奥まっているところだったが、それ以上に想像しうる教会の外観と百八十度違っていた。これでは前を通っていても気づかない。教会のホームページには、彼の姿こそなかったが新任司祭として”上永谷瀬人”の名前があった。記事のタイムスタンプは早春。彼が新宿の人間になったのはごく最近のことらしい。 「お前、いつの間にあそこいったんだ?」 「うお、びっくりした」  父親が後ろから手元の名刺を覗き込み、不審そうに言った。すごいびっくりしただろうが。 「東口の花屋に寄ったときに会っただけ。教会にはいってない」 「上永谷、上永谷って最近来たえらく別嬪な神父さんか」  やはり、一般的な感性でも彼を美しいと認識するらしい。すこし安心した。幻のたぐいで化かされたわけではないようだ。もちろんそれは当たり前なのだが、未だに白昼夢のように感じていた。第三者の視点が加わったことで、少し地に足がついたような心地である。 「先代からの大口だからな、俺も一度行ったことがあるよ」  一人がけのソファに身を沈めながら、記憶を辿っているのかぼんやりした顔で言う。先代、ということは今風呂に入っているお祖父様の頃からのお客様なのか。我ながら仕事に対して熱情どころか興味がないな、と感心する。おそらく東口の店長はそれを知っている。だからこそあそこまで挙動不審で様子を伺っていたのだろう。自分の失態で客先を一つ失うわけにはいかない。当然そうだろう。一方、俺はものすごく失礼なことをしたわけだが。 「お祖父様が若かったころは、きちんと、きちんとというか、俺達のおもう教会の外見をしていたらしい」 「今じゃコンクリートの羊羹……」 「ははあ確かにそうだ。国内じゃ有数のハイテク教会だよ」 「ハイテク教会……、情緒もへったくれもない……」  大小いくつかの鐘楼はコンピューター制御、礼拝堂には最新の音響設備、ホームページをざっとさらうだけでお金をかけている感じがよくわかる。清貧を掲げていた記憶があるが、どうやら違っているらしい。父親が言うに、幾つかの小さな教会をまとめる役割をもつ立場らしく、必然的に整備が進むのではとのことだった。件の礼拝堂はステンドグラスの保護のため、建物をほとんどそのままコンクリートで囲って補強したようなもので、一時代を超えた礼拝堂を守るための箱らしい。細く同系色の十字架が埋められていることに気づかなければ、体育館か美術館か、それに似た区の施設かなにかとしか思えない。 「俺も訪ねたのは一度きりだし、祭壇の花を任されてかなり経つ。いい機会だから一度顔を出してきたらどうだ」 「はあ……」  言われなくても、とは言い切れなかったが、これで精神的な口実ができた。美人に会いに教会へ? 違う、業務上の視察である。立派な理由だ。思わぬキラーパスにどうやら俺は浮かれたらしく、その後の死ぬほどつまらない食事会の間、笑みを絶やさずワインを煽り続けることができたのである。  祖父は神妙な面持ちだったが、主な話題は開発部門についてで、冷夏の影響の話ではなかった。先だっての向日葵も、天候からいえばやや時期外れのものだが、温室管理のために実現している。それでもあまり強くない種は運搬や店頭での管理が難しく、限られた時期にしか提供できない。アレンジメントに関して、競合他社と差をつけるには、季節に左右されないことをもっと強化していかなければ。とのことだった。花畑で花の世話をしている、といっても、きちんと整備され広大な敷地に幾つものビニールハウスをもつ大農場の主だ。のんびり花壇に水やりをするような話ではなく、品種改良や後継の教育を続けているわけだ。ほとんどニートの俺に対しては何も言わないが、おそらく業腹に違いない。素面ではあまり会いたくない。  それをわざわざ、東京の青山くんだりまできて俺たち親子に話をしたのは他でもない。俺を神奈川に連れて行くためだ。単刀直入に言う、といって本当に単刀直入であることは珍しいが、お祖父様は違った。 「皐月を神奈川で働かせる」  単刀直入である。やはり業腹だったのだ。フラグの回収が早すぎる。この老人は古希を次の年に控えているにも関わらず縁側で茶を啜るビジョンはもっていない、生涯仕事一筋だ。いっそ俺がそんな茶飲み生活をしたいものだったが、上手いことは行かない。絶対に定年退職してやる。 「お父さん、皐月は本社の取締役常務です。神奈川のハウスだって十分な人員がいるでしょう」  父親のこんなフォローは焼け石に水。むしろ火に油である。 「睦月、お前は甘すぎる。あの女の件で引け目を感じているのはわかるが、いい加減自立させろ」  ガラスのテーブルに思い切り置かれたグラスが耳障りな音をたてる。強化ガラスは簡単には割れないが、傷ぐらいはつくだろう。ガラスのぶつかる音に、焦ったような家政婦が顔を出したが、すぐに立ち去っていった。  話題の中心は俺だったが、当の俺は特にはじめてではない祖父と父の諍いをワイングラス片手に傍観する。飽きないものだ。  神奈川に行く、ということについて反論はない。働くことに嫌悪があるわけでもなく、ただ、許されているからふらふらと生きているだけだ。それでも、まあ、もう少しは遊んでられると思ったのだが。 「それで」  ワイングラスの中の残りを一気に飲み干して、静かにテーブルに置いた。 「いつからいけばいいんですか?」 「三ヶ月後だ」 「はあ」  すぐにでも来いと言われると思っていたが、案外猶予をつけられて拍子抜けする。何を意味する三ヶ月なのだろうか。身辺整理か? 女はみんな切ってこいみたいな。島流しじゃあるまいし、と訝しげな顔をしてしまい父に咎められる。 「秋までは取締役常務としての仕事を熟せ。睦月の言うことをよくききなさい」  自慢じゃないが、反抗期を終えた後に父親に反発したことはない。それくらいが取り柄であ る。  それよりも、いままでハリボテだった肩書に突然ウェイトを与えられたことのほうが荷が重かった。取締役常務。あの美人の社長秘書に、新人研修からはじめてもらおう。 続

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