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第1話「再会」

 五月最後の金曜日の放課後、少し疎らになった教室で、都山優穂(とやまゆうほ)は窓際の小柄な親友に声を掛けた。 「金田、あのさ…、今日は俺、部活休むよ。」  親友、金田祥平(かねだしょうへい)は目を見開くと、鞄に手を伸ばす優穂の手を引っ張った。 「何でだよ?今日さ、美人のモデルが来るらしいぜ。前原が連れてくるって、張り切ってた。」  二人は入り立ての美術部部員だ。 「そうなんだ。」  優穂は少し興味を示す。 「少しだけ顔出して、モデルの子、見て帰ったら?」  金田が更に誘い水を掛けてくる。優穂は困ったような笑みを浮かべた。 「悪い。…家の用なんだ。」 「そっか…。残念だな。」  金田の手が力を無くして優穂から離れる。 「月曜にそのモデルの子、教えてくれよな!」 「了解!じゃあ、部長には連絡しとくから。」 「うん、有難う。」  優穂は軽く手を振り、教室を後にした。そのまま校門まで足早に歩を進めた彼だったが、バス停付近まで来ると、不意に足取りを重くした。そしてわざとバスを一本遅らせる。それから腕時計に目をやり、彼は深い溜息を吐いた。  時刻は三時二十分を回ったところだった。 「今日は遅くても四時半までには帰って来てね。…会わせたい人がいるから。」  昨夜の優穂の母親の言葉が、彼の脳内に木霊する。  会わせたい人、それは母の再婚相手だった。  優穂の母、景子は十七歳で彼を出産した。父親である相手の事は頑なに口を閉ざされ、彼女の両親にも知らされなかった。そして優穂も父親のことを尋ねようとすることもなく、現在に至っていた。  中卒、未婚の母というレッテルの下にも屈せず、二十歳の時に精鋭たる若手画家の仲間入りを果たし、不自由なく育ててくれた母親を、優穂は心から尊敬している。  途中、祖父母に預けられた時期もあったが、十年は確実に二人だけでやってきていた。 それが今、覆り、新たな生活を強いられるのだという思いが、優穂を不安がらせ苛んでいる。  優穂は落ち着く為に記憶を整理する。  母親に恋人が出来たかも知れない。そんな思いが過ったのは、去年のクリスマスシーズンからだった。  高校受験を控えた息子がいるにも関わらず、彼女は長く家を空けた。仕事で別宅のアトリエに籠っているのだろうと思っていたが、服装やメイク、派手な下着が、優穂に訝しさを与えた。  優穂が高校に進学した四月の終わりに、景子はそれとなく話を切り出してきた。 「もしもね…、母さんが誰かに…プロポーズされたって言ったら、どうする?」  優穂は気付かれないように深呼吸した。母は実齢より若く見えるし、魅力的な容姿をしている。全く想像していなかった事態ではなかった。しかし、シミュレーション通りの快い返答は、喉の奥で閊えてしまって出てこない。 「…それってたとえ話?」  動揺を悟られないように真顔で答える。その反応に景子は少し困惑し始めた。 「そ、そうよ。…今のところね。」  景子の困り顔に、優穂は自然な笑みを作る。 「本当かな?まあ、いい人なら…チャンスなんじゃないの?これを逃すと二度とないかもよ。」 「やっぱりチャンスよね!…二度とないかもは、否定させてもらうけど。」  景子の顔も一気に綻んだ。 「いつでも連れて来てよ。…いつでも会うからさ。」  そんなやり取りがあって、一ヵ月後、ついにその日は訪れたのであった。  「その人、優穂の知っている人よ。きっと、びっくりするわ。」  前日に再婚相手と会うことを約束させられた上に、「知っている人」というキーワードも飛び出し、優穂は動揺で、今までの祝福の気持ちをリセットさせられてしまった。  自己中心的に考えれば、自分の父親になる人と会うのだ。景子の周囲にいた男性を全て思い出し、その人達が家にいることを想像するが、全て否定的な考えに囚われてしまう。  誰なのか訊いても景子はサプライズだからと言って教えてくれない。優穂の余裕は消え、躊躇の波が彼を襲った。  重い足取りで、郊外にあるマンションの五階の玄関前まで辿り着いた。時刻は約束の五時を過ぎてしまっている。  優穂は必死に口角を上げてインターホンを押した。 「遅かったじゃない!」  インターホンの応答なく扉は開かれ、景子が飛び出してきた。いつもとは違い、華やかなワンピースを着ており、普段は無造作に一つに束ねられている髪も、今日はその肩に艶やかに流れている。 「ご免、少しだけ部活に顔出したんだ。」  伏し目がちに嘘を吐いた。玄関に男物の革靴を一瞥すると、無意識に溜息が漏れる。 「早く上がって!あの人、あんたに会うの楽しみに待っていたのよ。」  景子に背中を押され、リビングへと足早に向かわせられる。彼女の手のひらに心臓の音を悟られたくなくて、その手を払った。 「押さないでよ。」 「はい、はい。」  優穂がリビングへ近付くと、ソファに座っていたスーツの男がゆっくりと立ち上がった。かなりの長身だ。 「お帰り、優穂君。…久し振りだね。僕の事覚えているかな?」  その男の顔と声を認識した瞬間、優穂の体に嫌悪の電流が走った。  男は優しい笑みで優穂を見つめる。その笑みに、優穂の体は僅かに震える。 「北見さんよ。驚いたでしょう?この人が再婚相手だなんて。」  優穂の様子に気付かず、景子は興奮気味に男を紹介する。 「…認めない。」 「え?」  突如紡がれた息子の一言に、景子は耳を疑う。 「優穂?」 「認めない!…俺は絶対に二人の結婚を認めない!」  優穂はそう叫ぶと、玄関を飛び出した。

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