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Side:ヴィクトル
最近、勇利の様子がおかしい。
「勇利、何かあった?ご飯おいしくない?」
「え?あ、大丈夫、なんでもないよ。僕これ大好き。だけど食欲があまりなくて…ごめんね」
勇利はそう言って言葉を濁した。今日の夕食はボルシチで、勇利の好きなきのこ類をたっぷり入れたものだ。二人の間で食事当番は決めておらず、今日は手の空いていた俺が作っていた。普段だったらニコニコ笑顔で平らげるのに、なかなか勇利の皿の中身は減らない。
「もしかして体調悪い…?」
手を伸ばして勇利の額を触る。熱は…ないみたいだ。だとしたら何だろう、ストレスか。太ったわけではないからダイエットの必要はなさそうだし。勇利は自分でも気づかない内に無理してしまう傾向があるから、俺も注意しておかないと。
「違うよヴィクトル、心配しないで」
「そう…」
そして勇利はくすりと笑った。いつもと変わらない笑顔だけど、少しだけ翳りが見えた。
夕食後ののんびりとした時間、勇利はリビングのテレビで録画した番組を見ていた。
「勇利、なーに見てるの?」
それは先日俺がゲスト出演したバラエティ番組だ。もちろん聞かなくても分かっているけれど、俺はソファーに座る勇利の背中に抱きついた。
「邪魔しないでよね」
勇利はそう言いながら振り返る。ツンとして、少しだけ照れた様子なのが可愛い。
俺はその可愛い唇にキスを落と…そうとしたら勇利がテレビの方に向き直った。ちょうどテレビに俺が出てきたみたいだ。
「ヴィクトルかっこよか。すごく良い笑顔」
「…………」
おもしろくないね。テレビの俺より今の俺を見てほしいよ。そんな余所行き笑顔よりも、勇利といるときの方がよっぽど表情豊かだというのに。
俺もソファーに座って、勇利にぴたりと寄り添う。勇利も、そっともたれ掛かってきてくれた。じんわりと心地よい体温が伝わってくる。
「この番組面白いね。司会者さんも、ヴィクトルの良さをよく分かってる」
「そう?よかった。俺もこの人相手だと話しやすかったかな」
そう言いながら勇利の腰を抱いて顔を近づける。キスしたいな、と思ったら急に勇利はテレビを消した。
「え?」
「僕、先にお風呂入ってくるね」
「あ…うん。どうぞ」
今、避けられた、よな…? あの雰囲気なら、いつもはキスしてた。テレビが見れないって怒りながらも、こんな避け方をされたことは今までなかった。というか、録画とはいえ俺が出ている番組、しかも面白いって言っていたものを途中で消すなんて、普段の勇利ではありえない。
……なんで?
頭の中を疑問符がぐるぐる巡る。俺、何かやらかしたっけ。
足元で丸くなっていたマッカチンを抱き寄せて、よしよしと撫でた。そういえば、最近勇利からキスしてもらっていない気がする。
「マッカチン…、俺、勇利に嫌われたのかな…」
「くぅーん」
マッカチンが慰めるように、ぺろぺろと顔を舐めてくれた。
勇利がお風呂から上がり、俺も入れ違いで入った。シャワーを浴びて、湯船につかる。長谷津で過ごした8ヶ月間で、俺も夜はのんびり湯船に入るのが習慣になっていた。
バスローブを着てリビングへ戻ると、勇利は雑誌を読んでいた顔を上げた。目が合うと、にこりと微笑む。
「勇利、一緒に寝ようか」
「――!」
俺がそう言うと、勇利は一瞬驚いたような顔をした。そして、目を伏せる。
「ごめん」
「……そう」
断られるのには慣れている。それでもやはり、悲しいことには変わりない。ショックを受けていることを悟られないように、俺は勇利を残して足早に自室へ行った。
勇利と一緒に暮らし始めていつの間にか半年程経つ。彼の拠点をロシアに移すにあたって、俺は最初から同居するつもりでいた。物置になっていた部屋を勇利の部屋に宛がって、家具も買い揃えた。だけど恋人なんだから、願わくば一緒のベッドで寝たいと思っていた。
それなのに彼は、こともあろうに最初から俺と同居するという選択肢なんてなかったようで、ロシアに来ると同時に既にリンクの寮に申し込みを済ませていた。それを俺は半場無理やり説得させて、同居へとこぎつけたんだ。
一緒にご飯を食べて、一緒にテレビを見て、それから、ほんのたまに一緒に寝る生活。愛する人と共に過ごせて、幸せだとは思う。けれど、もう少し先に進みたいというのが本音だ。
一緒に寝るのは勇利が気が向いたときにだけ。「一緒に寝る?」という俺の問いかけに、OKがもらえるのは、3回に1度程度だろうか。それも本当に寝るだけで、スキンシップといえばキスをして抱き合う程度だ。初めての夜は勇利はガチガチに緊張していて、流石に躊躇われてしまって、それ以上はできなかった。日本人はシャイだとか奥手だとか聞いていたから、勇利がその気になってくれるまで待とうと思った。勇利はなかなか言葉にしてくれないが、俺は何度も「愛している」と伝えているし、キスもハグも拒まれていないから、思いは通じ合っていると思っている。
―――思っていた。
翌日、目を覚ますと勇利は日課のランニングに行っているようだった。マッカチンも一緒だろう。窓を開けると爽やかな風が入って来た。短い春が終わり、すっかり夏らしい気候になってきた。大きく深呼吸をし、寝ぼけた頭をすっきりとさせた。
リビングのテーブルに一人分だけ用意されていた朝食に、ふと違和感を感じる。
普段から、できるだけ食事は一緒に摂ろうと言っている。勇利はいつもランニングが終わってから、俺がいる時は一緒に朝食を食べていた。今日は先に済ませたということか。それはつまり、俺と顔を合わせる時間を減らしたいということか…。なんとなく、嫌な予感がする。
味気ないトーストと目玉焼きを口に押し込んで後片付けをしていると、玄関の扉が開く音がし、ワンッと元気な鳴き声と勇利の声が聞こえてきた。
「ただいま、ヴィクトル」
「おかえり、勇利」
勇利はそのまま、シャワーを浴びに行った。それもいつものことで、何ら変ったところはない。その間に、俺は身支度を整えてリンクへ行く準備をする。今日は一日練習の予定だった。確か勇利も同じスケジュールだ。
洗面台で髪を整えていたところに、勇利がシャワーから出てきてタオルで体を拭いている。火照ってほんのり赤らんだ肌が目に入り、ふと自分の中の欲が顔を出す。
「勇利」
「ん?」
俺は勇利の頭に乗っていたタオルを引き寄せると、そのまま勇利の体を抱きしめた。まだ少し濡れている髪を撫でながら、額にキスを落とす。勇利の肩がびくりと跳ねた。
そしてそのまま唇を奪おうとしたら、思いがけない力で跳ね除けられた。
「嫌だ!」
「―――!」
勇利が、しまった、というような表情をして固まる。そしておろおろと視線をさ迷わせて泣き出しそうになった。
「ご、ごめ。あの違…。えっと…ごめん!」
叫ぶように言うと、半裸のまま逃げるように駆け出す。勇利の部屋のドアがパタンと閉まるまで、俺は呆然とその場から動けずにいた。
拒絶された―――。
そう頭が理解すると、気が抜けたように俺はその場にへたりこんだ。
***
「おいジジイ、なんだカツ丼のあの滑りは。へったくそすぎだろ」
「だよねえ…」
リンクサイドで、勇利の滑りを見ていたらいつのまにかユリオが隣に来ていた。今日の勇利は、ジャンプもスピンも心ここにあらずでボロボロだった。今はジャンプを禁止してステップの確認をしている。
「ジジイも辛気臭い顔してやがるし。だいたい、一緒に住んでるくせに別々に来たときからおかしいとは思ってたけどよ。さっさと解決させやがれ」
「そう思うんだけど、全然心当たりがなくて…。どうしよう」
「知るかっ」
ユリオは言いたいことだけ言うと、さっさと立ち去って行った。
「勇利、ちょっといい?」
「うん」
滑っている勇利を呼んで、壁越しに向かい合う形になる。
「今日、全然集中できてないよね。なんで?」
「えっと…それは……」
少し怒った風を装い問い詰めると、勇利は戸惑いを見せた。
「朝のこと、怒ってる?」
「違う!」
思いがけず大声で返されて、周りの注目を浴びてしまう。勇利がさらに狼狽を見せた。
「ごめんっ、えっと。違うから。ヴィクトルは何も悪くないから」
「なにそれ」
俺は勇利のエッジカバーを差し出した。リンクを降りろという無言のサインだ。勇利も大人しく従う。
リンクサイドのベンチに隣同士に腰を掛けた。勇利はどことなく落ち着かないでいる。
「理由は教えてくれないの?」
「えっと…、ごめん」
「謝ってるだけじゃ分からないよ」
そう言って、勇利の頬を両手で挟んで俺の方を向かせる。まっすぐに勇利の瞳を見つめると、すぐに視線を逸らされた。そしてぽつりと「嫌われたくないから」と聞こえた。
俺はゆっくりと手を離す。何か隠しているんだろうが、ここで無理やり口を割らすのは得策ではないだろう。
今度は髪を撫でた。さらさらと、指に心地よい感触を確かめる。
「勇利、キスしてもいい?」
「……ごめん」
なんとなく、そう言われるのは分かっていた。だけど、実際に言われると辛いな。
「ねえヴィクトル。僕達恋人じゃないんだから、キスするのはおかしいよ」
「………え?」
頭の中が真っ白になる。
今、聞き捨てならない言葉が聞こえた気がする。嘘だろ。
恋人じゃない…って。何を言っているんだ。
勇利がおもむろに立ち上がると、そのまま足早に去っていく。一拍後、俺も慌てて立ち上がって勇利を追った。「待って」と言っても、無視して先に進んでいく。スケート靴だと上手く走れないのが憎い。ギリギリ扉から出ていく前に追い付いて、勇利の手首を掴んだ。
「待って勇利!」
「何……」
振り向いた勇利は、困惑と、悲壮の混ざったような表情をしていた。どうして君がそんな顔をしているんだ。
あぁもう、俺はどうすればいいんだ。どうしたら勇利に分かってもらえる。
「愛してる」
「へ…?」
「勇利、俺はお前を愛してる!」
「――っ! ちょっと、こんなところでいきなり何言ってんの!?」
言いながら勇利が俺の腕を振り払った。その動きがさらに俺を冷静でいられなくさせる。
分かってる、こんなの俺らしくない行動だって。だけど他に思いつかないんだ。勇利が分かってくれないのなら、何度だって伝えてやる。
「勇利が変なこと言うからじゃないか!恋人じゃないだなんて。俺、とっくに恋人だと思ってたよ。勇利は違ったの? 俺のこと好きじゃないの?」
勇利の顔が一気に真っ赤になった。そして、おろおろと視線をさ迷わせる。それから一度ぎゅっと目を瞑ると、何かを決意したのか俺を真っすぐ見つめた。
「明日まで待って」
勇利の口から、また訳の分からない言葉が飛び出した。
明日? 明日って…? 何かの記念日?誰かの誕生日?
「………明日、何かあったっけ?」
考えても何も思い浮かばず、やっと口からでてきた言葉に勇利はかぶりを振る。
「何もないよ。ヴィクトルは確か、明日は午前中取材で、午後からオフでしょ」
「うん、そうだけど」
「午後は家にいて。告白するから、待ってて」
「……???」
ますます訳が分からない。告白するって、自己申告してから言うものなのか。
「えっと……」
「とにかく!明日僕はヴィクトルに告白するから、そのときから恋人になって!」
「……はい」
有無を言わさない勇利の言葉に、俺は頷くしかなかった。
俺の返事に満足したのか、勇利はそのまま踵を返して立ち去った。
「あんた達、まだ付き合ってなかったのね」
「ミラ…いたのか。見苦しいところを見せてすまない」
ミラが近づいてきて、俺の肩を叩く。周りを見渡すと何人かに見られていたようで、慌てて視線を逸らされた。こんな人通りの多い場所で言い争っている俺達が悪いのだから、何も言えない。
俺は溜息を吐いた。
「日本では告白してから恋人になるって本当だったんだ。あんた達、どっからどう見ても恋人同士なのにね」
「そう見えた? ならよかった、俺の感覚がおかしい訳じゃないよね」
「うん。まぁ、世界一の色男でもこんな風に振り回されることがあるのね。明日頑張りなよ」
はあ、とまた溜息が漏れる。一体勇利は何がしたいのだろう。
***
夕刻になりヤコフの指導が終わると、勇利はもう先に出たようでスマホにメッセージが来ていた。
『今日の夕食はユリオと食べます。10時前には帰ります。』
簡潔な文章。やっぱり勇利の考えはよく分からない。ここで『俺も行く』と行っても100%断られるのは分かってる。
俺は『了解』とだけ送った。すぐに既読マークが付いた。
一人で夕食を口に運びながらSNSをチェックすると、ユリオがカツ丼の写真を上げていた。奥に勇利らしき人物が見える。疑っていた訳ではないが、ほっと安心している自分に気付いた。
「明日…か」
ぽつりと呟いた声はマッカチンだけが聞いていた。一人と一匹で食べるご飯のなんと味気のないことか。数年前までそれが普通だったというのに、すっかり勇利がいる生活に慣れてしまっていた。
宣言通りに10時前に帰って来た勇利は、どことなく落ち着かないでいるようだった。
「勇利、ユリオとご飯楽しかった?」
「え?あ、うん。楽しかったよ」
「そう」
会話が止まる。そして沈黙を破るように、勇利はお風呂へと消えていった。一応一緒に寝ようか誘ったものの、やはり答えはNOだった。
***
翌朝。勇利がランニングに行っている間、昨日と同じように一人分だけ残された朝食を口にする。今日は勇利は一日オフで、午前中は買い物に行くそうだ。勇利が出かけるのを笑顔で送り出す。
……ねえ勇利、分かってる?この辺りのお店ってだいたい午前10時開店なんだけど、今まだ9時前だよ? どこまで買い物に行く気なんだい?
俺の取材の時間までは、あと1時間以上もある。俺はためらいもなく家を飛び出した。すぐに目当ての背中を見つけ、見失わないように歩を進める。
尾行? 上等だ。本当にただの買い物だったらすぐに帰ろう。だけどもし仮に誰かとデートでもするんだったら、俺はどうするだろうか。きちんとこの後の取材を受けられるだろうか。全て投げ出して、相手を威嚇しに飛び出すだろうか。そんなことはその時になってみないと分からないね。
恋人じゃないなんて言われて、なら他に本命がいるのかと疑うのは当然のことだろう。
あれ、今日告白してくれるんだったっけ? 今日から恋人?てことは、もしかして今から過去の男か女に別れを告げにいくとか? なにそれふざけてるのかな。
勇利は真っすぐ駅前へと続く道を歩いていく。10分程歩いて少し大通りを離れると、立ち止まってスマホを取り出した。俺も少し離れたところから見守る。勇利は辺りをキョロキョロと見渡して、また進みだした。俺もあとから続く。しばらく進むとまた立ち止まり、スマホを確認して、目の前の建物に入っていった。
勇利の姿が完全に見えなくなったのを確認すると、俺は走り寄る。そして建物を確認すると、ほっと肩の力が抜けた。
「なんだ、そういうことか」
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