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Side:勇利
思ったよりも早く用事が済み、買い物をして家に帰るとマッカチンが出迎えてくれた。ヴィクトルはまだ帰ってきていないようだ。
ピコンと通知音が聞こえて、慌てて鞄からスマホを取り出す。ヴィクトルからメッセージが来ていた。
『取材終わったよ。一緒にどこかでランチする?』
僕はすぐに返信をした。
『家でご飯作って待ってる』
数秒後に、犬の周りにハートが舞っているスタンプが送られてきた。くすりと自然に顔が綻ぶ。
僕もスタンプを返すとスマホをテーブルにおいて、エプロンをつけた。
僕はヴィクトルが好きだ。子供のころからの憧れで、ずっと追いかけ続けていた人だった。それがいつしか距離が近付いて、純粋な憧れだったものが恋心に変わったのはいつだろうか。ふと目が合った瞬間、ふと指先が触れた瞬間、ふわりと優しく笑いかけてくれた瞬間。いつからだなんて分からないけれど、ゆっくりと想いは募っていった。
ロシアで暮らすと決めたとき、始めにヤコフコーチに住む場所の相談した。なぜか当たり前のようにヴィクトルと暮らせばいいと言われたけれど、迷惑をかけたくないからと断った。そうしたら、リンクの寮を紹介してくれて、そこに入ることになった。だけどそれをヴィクトルに報告したら、すごくショックを受けているみたいだった。それで、半ば押し切られるような形で、居候させてもらうことになった。ヤコフコーチに伝えると、少しだけ安心した様子だった。
本当は、ヴィクトルが一緒に暮らそうと言ってくれたこと、嬉しかった。長谷津でずっと一緒だったからかな、また前みたいに暮らせるんだと思うと胸が高鳴った。だけど当たり前だけど、僕に用意された部屋には家具が揃っていて、もちろんベッドもあった。そこが、僕の空間。
それなのにたまに「一緒に寝よう」って言ってくれるんだ。嬉しかった。長谷津にいた頃もたまに一緒に寝ていたしさ。あの頃は一緒に家族がいたけど、この家は二人きり。もしかしたら、手を出してくれるかなって、少しだけ、少しだけ期待してた。だけど、違った。
本当に、一緒に寝るだけ。長谷津にいたころと変わらない。
次の日、僕はまた自分の部屋に戻った。
それでもまた数日後に、何でもないように「一緒に寝ようか」って言われた。
僕はマッカチンと同レベルなのかな。抱き枕の代わりかな。
苦しかった。僕が思いを伝えたら、それで拒絶されてしまったら、今まで通り一緒に過ごせる自信がなかった。彼は僕に簡単に「愛してる」って言ってくれるけど、僕にはとても言えない。
ヴィクトルは本当にモテる。今までだって数々の美女とのゴシップを目にしてきた。だから、彼が僕を本当の意味で、僕と同じ意味で愛してくれることなんて、ないと思っていた。
彼はよくハグやキスをしてくれる。ことあるごとにしてくるから最初は戸惑ったけれど、だんだんと慣れてきた。僕からも、たまにするようになった。
僕達のキスは、触れるだけ。信頼の証。ただの挨拶。正直に言うと、もっと深く触れたいな、と思うこともある。だけどきっと彼はそれを望んでいない。だから、いいんだ。
数日前から、僕はさり気なくキスを避けるようになった。彼がそのことに気付かなければ、気付いたとしても気にしないようであれば、この機会に少しずつ距離を取っていこうかと思っていた。 だってよく考えたら、恋人でもないのにキスするのはおかしいよね。僕の感情が抑えきれなくなる前に、引こうと思った。
それなのにヴィクトルは、すぐに気付いた。そして僕の予想とは逆に、執拗にキスをしてこようとした。
僕はもう、どうすればいいのか分からなくなった。
彼のためを思ってやめているのに。
だけど昨日。あんな真剣な目で言われて。余裕のない表情で言われて。
――やっと気づいた。
なんだ。恋人だって、思ってよかったんだ――。
それにしても…
『明日僕はヴィクトルに告白するから、そのときから恋人になって!』
って。僕、バカなのかな。何言ってんだろうほんと…。混乱してたとはいえ、あれはない。流石のヴィクトルもドン引きしただろうな…。
頭の中をぐるぐるさせながらも、目の前のフライパンにも注意を向ける。大体出来たから、あとはスープとサラダ。
時計をチラと見る。そろそろ帰ってくるかな、最後の仕上げだ。
出来上がった料理をテーブルに運んだところで、タイミングよく玄関の扉の開く音がした。マッカチンが反応して、一目散に玄関に駆けていく。
「ただいまー」
「わふっ」
僕も玄関に行くと、マッカチンを撫でているヴィクトルがいた。
「おかえりなさい」
ヴィクトルが顔を上げて、僕に微笑みかける。その優しい笑顔を見た瞬間、ぶわっと体温が上がった気がした。
慌てて背を向けて、リビングへ戻る。それから深呼吸して、テーブルに置いていた花束を手にした。先ほど花屋で買ってきた、赤い薔薇3本。
それを、きょとんとしているヴィクトルの前に差し出した。もう一度深呼吸。そして、真っすぐヴィクトルを見つめた。
「好きです。僕の恋人になってください」
「―――!!」
ガバッと、両手を広げて勢いよく抱き着かれて、危うくバランスを崩しそうになる。
「もちろんだよ、勇利。愛してる」
反応できずにいる僕の耳元で囁かれて、さらにぎゅっと抱きしめられた。
「もうキスしていい?」
ヴィクトルのその言葉に、僕は答えずに唇を合わせた。ちゅっと軽く合わせて離れる。
ヴィクトルは目を見開き、そして花が綻ぶように笑った。じんわりと僕の胸に温かさが広がる。
そうだ。僕もヴィクトルとキスがしたかったんだ…。
「ねえ、勇利」
「ん?」
ヴィクトルがにこりと笑う。
「俺、勇利になら虫歯うつされても平気だよ」
ピシッと、自分の表情筋が固まったのが分かった。
え、なんでバレてるの!?
「えっと…あの…」
「不治の病でもあるまいし、虫歯なんて歯医者に行けばすぐに治るよ。全然問題ない」
「駄目だよ!ヴィクトルの綺麗な歯に傷が付くなんて、絶対ダメ!」
「はぁ…」
僕の剣幕に、ヴィクトルは盛大に溜息を付いた。
だって、虫歯ってキスでうつるんだよね? 僕のせいでヴィクトルまで虫歯になるだなんて、とても耐えられない!
「勇利…。そもそも虫歯って、軽いキスくらいじゃうつらないからね。これくらいしないと」
ぐっと頭を手で押えられて、唇を塞がれる。驚きで固まる僕の唇を優しく舐められて、呼吸のため開いた唇の間にそっと入ってきた。
「~~~!」
思わず腰が引けたのを、ヴィクトルが片手で押える。そして角度を変えてさらに深く口内に入ってくる。僕の舌を追いかけて、吸われて、口の中全てを掻き回された。熱い吐息と水音が頭に響く。頭がふわふわとしてくる。だけどなんだか……気持ちいい。
ゆっくり唇が離れると、透明な糸が間を伝った。荒くなった呼吸を整えながらヴィクトルを見上げると、満足気に微笑まれた。
「分かった?」
彼の言葉に、こくりと頷くことしかできなかった。
「そんな顔されると我慢できなくなるから、早くご飯食べようか」
「……うん」
促されるままテーブルにつき、少しだけ冷めてしまったオムライスを口に運んだ。
「美味しいね」
「うん、美味しい」
虫歯が治ったおかげで、やっと満足にご飯が食べられる。だけどさっきのキスの余韻で全然味が分からなかった。
「ご飯食べたら、勇利を抱くよ」
「げほっっ、ごほっ」
唐突に出てきたヴィクトルの言葉に、僕は思い切りむせながらコップの水を呷った。
「な、何いきなり!?」
「明日告白するって言った君よりもマシじゃない。明日抱くよって言うより、ご飯食べたらの方が待ち時間が短い」
「なにその理屈!?」
「つまり、待たせた勇利が悪いってこと」
そう言うと、ヴィクトルはニヤリと笑った。どうやら僕に拒否権はないようだ。
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