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Lunch ‐1‐
「課長、ランチ行きません?」
パソコンとにらめっこを続ける肩をポンと叩くと眉間に皺を寄せたまま振り向いた。
「あ?もう昼か」
眼鏡を外して目頭をぐりぐりと刺激する。長時間のにらめっこはこの人にはかなり苦痛なのだろう。
「奢らないからな」
「わかってますよ」
俺は奢って欲しくて上司をランチに誘っているわけではない。
純粋に休憩して欲しい思いともうひとつ。
ランチと言っても女子社員のようにお洒落なカフェやレストランに行くわけではない。むしろまさに昼メシという響きの方が似合いの定食屋や牛丼屋、忙しい時にはコンビニ弁当や出前で済ませるのが俺たちの常だ。
今日は定食屋で生姜焼き定食を食べた。課長はメンチカツ定食。
早々に食べ終え一服してから会社に戻り、所属部署のフロアへ行く前に資料室へと連れ込む。
「おい、またか?」
眉間の皺はずっと刻まれたまま、目頭への刺激もすでに10回以上確認済み。俺は答えずに上司の腕を掴んで壁へと押し付けた。
「無理しないでください」
「してねーよ」
「嘘つき」
「嘘なんて…んっ…」
素早く口付けて抗議の言葉を打ち消す。掴んだ腕が微かな抵抗を試みて、諦める。力の差は歴然。抵抗など無意味である事をこの人は知っている。
「おま…しつ、こ…い…」
「好きでしょう?俺のキス」
「――っ…やなやつ…」
さらに眉間の皺が深くなり、拗ねた色が目に浮かんだ。
初めてキスをしたのもこの場所だった。
新卒で入社した当初、希望部署だった企画開発課ではなく企画営業課に配属された事がひどく不満だった。研修中も上司から名指しで褒められたくらいに優秀な結果を出したのにもかかわらず、何故希望が通らなかったのか納得出来なかったからだ。
とは言え、文句を言ったところで通用するはずもない事は承知している。不満を抱えたまま俺は与えられた仕事をこなすしかない。
そんな毎日を送っていたある日、課長から資料を取りに行くからついてこいと言われた。
課長は部下に好かれる典型タイプの人間だった。甘い顔立ちに柔らかい声が、仕事中だけは厳しくなるギャップに女子社員は騒いでいる。それだけではなく、特に新入社員にはプライベート面までフォローをする実に面倒見のいい上司なのだ。
課長は資料室でふたりきりになるとこう言った。
「不満があるなら言ってみろ。いくら仕事が出来てもそんな風に眉間に皺を寄せてたら孤立しちゃうだろ」
その言葉に俺はひどく腹が立ったのだ。心底ムカついた。
配属に不満だらけだった俺は同じ部署の連中とは反りが合わず、孤立しかけていたのは事実だ。それでも仕事で結果を出していれば文句を言われる筋合いなどない。
「あんた、結構金持ちのお坊ちゃんだろ」
「え?」
「親の引いたレールの上をただなんとなく歩いて来て、気付いたら今の場所に立ってた」
図星だったようで課長は少し不愉快に顔を歪めた。
「今、着てるスーツもブランドもんみたいだし。人間ってそういう余裕があると回りの人間のプライベートにまで土足で踏み込んで、なんとかしてやろうって大層な事を実行するんだよな」
俺はそういう奴が大嫌いだった。たいてい自分でなくて良かったという安心感や、自分よりも下の人間を見て優越感に浸るための行動に過ぎない。
「おあいにくさま、俺はあんたみたいに順風満帆に生きてないんでね。最低限の付き合いは仕事のうちだから仕方ないけど、それ以上はする気ないんで」
きっとこれでこの上司は俺を構わなくなるだろうと思った。いくら余裕のある人間であっても、年下の、ついこの間まで学生だったガキにバカにされたら腹を立てるに決まっている。
しかしこの男は違った。
呼吸を整え俺を真っ直ぐに見つめると、柔らかく微笑む。
「君がどんな人生を歩いてきたのか知らないけど、少なくともこれからしばらく俺は君と人生を共にしなければならない立場にある。仲良くしといた方がお互いのためになると思わないか?」
どこまでもムカつく奴だと思った。
生意気な部下相手に「仲良く」だなんて言葉を発するお坊ちゃんの笑顔を、何としても崩してやりたくなった。
俺は課長の腕を掴んで資料室の奥へと進み、壁に押し付け睨み付ける。体格の差はないが、驚いたようで抵抗なく壁を背に佇む。
そのままゆっくりと顔を近付けて唇を合わせると、やっと抵抗を始めたが、思いの外その力は弱かった。その理由は後から知る事になるが、この時はお坊ちゃんは腕力で対抗する機会に遭遇する事などないからだろう程度にしか思わなかった。
「か…葛城っ…なにを…」
抗議のために開いた隙に舌をねじ込ませて深く口付け、乱暴に口腔を侵す。押さえ付けた腕を必死に振りほどこうとしているようだが全く敵わない。
俺自身も振りほどかれる心配などしてなかった。頭だけではなく、腕力にもそれなりに自信があったからだ。
嫌になるくらいに長くキスをして、離れる頃には課長は諦めたのか無抵抗のまま肩を大きく上下させていた。
「お前…なんで…」
濡れた唇を拭いながら至極当然の疑問を口にする。その顔からは笑顔はもちろん、部下を優しく見守る上司の面影すら消え失せていて、性的快感に似た感覚が走る。
「俺、ゲイなんですよ」
ニヤリと笑って見せれば息を飲む。
ここまですれば必要最低限以上の接触を試みようなんてバカな真似はしなくなるだろう。
その俺の考えは間違ってないはずだった。
それなのにまたこうして同じ場所で同じようにキスを繰り返しているのは、この目の前の上司が思っていた以上に善人だったからに外ならない。
いつの間にかこの善人に俺はほだされ始めている。面倒は嫌だから、絶対に仕事関係の人間を相手にするのはやめようと思っていたはずなのにも関わらず、だ。
当たり前のようにふたりきりで飲みに行く機会も増えた。そこで実は視力が弱く、目を酷使すると視界がぼやけてしまう事や、そのせいで必要以上に過保護に育てられた事を知った。
日常生活に差し障りはないが、パソコンと向き合い続けるのはキツイらしい。
今ではあんなに不満だったはずの配属にすら感謝しそうな自分に俺自身が戸惑っている。
「課長、もしかして溜まってるんじゃないですか?」
キスをただ受け入れるだけではなく、楽しみ始めた事に気付いた時にそう言うと、事もあろうに頬を赤らめ拗ねた色を含ませながら「……お前のキスがうますぎるんだよ」と吐き捨てた。それ以来、遠慮なくこうして繰り返している。
何故この人が黙ってこの妙な関係を続けているのかはわからない。腕力で敵わない事も、キスがうますぎるという事も、その理由にはならないと思う。
理由を問えない理由は考えたくない。
そんな関係を変えようとしたのはやっぱり課長の方だった。
慣れていないのか、唇が離れると相変わらず肩を大きく揺らして呼吸を整える。濡れた唇を拭うのも相変わらずだ。
「…なぁ、お前…その…彼氏、とかいるのか?」
突然の質問に思わず「はぁ…」と否定とも肯定とも取れる返事をしてしまう。どっちに取ったのかわからないまま、課長は「そうか」と言って黙り込んだ。
「それが何か?」
「いや…もしいるなら、やっぱりマズイんじゃないかと」
「ずいぶん真面目な考えを持ってるんですね。セックスしてるわけじゃないのに」
そう、たかがキスじゃないか。この接触に深い意味はない。そんなもの、あってたまるかと思う。そんな事より、会社で部下にいいように扱われている方が問題なんじゃないだろうか。この人はどこかズレていると気付いたのはずいぶん前の事のようだ。
「違う。内容じゃなくて、心の話」
まだ、こんな風になってから2、3ヶ月しかたっていないのに。
「想う相手がいるのに、他の相手と気持ちのない関係を持つのはツライじゃないか」
柔らかな視線に拗ねた色が含まれ、無性に苛立つ。拗ねられる理由なんてないのに。
「それならあんただって同じだろう?」
俺の言葉にきょとんとして、何かに気付いた様子を見せた。戸惑いと羞恥の混ざる目が不安げに揺れる。
「なんなら、今ここであんたの足開かせてあげましょうか?」
思い切りからかいを込めて言った言葉に怯みもせずに、真っ直ぐと見返される。時々こうして見つめられるが、それは居心地の悪い瞬間だ。
俯いて、とん、と拳で胸を軽く叩かれ、立ち去る間際に見えた表情に寂しさがあって混乱する。
どういう意味だったのだろうか。
「課長」
呼び止めて何と声をかけつつもりだったんだ。
「想う相手と気持ちのない関係を続ける方がキツイのかもな」
閉ざされた扉は、まるで俺の心のようだった。
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