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Lunch ‐2‐

「課長、確認お願いします」 報告書を手渡してくる葛城は、入社当時から出来るやつだった。背筋を伸ばし、スーツをしっかりと着こなし、真面目な表情で俺からの返事を待っているが、こいつからの書類にミスがあった事は一度もない。本人も自覚しているようで、姿勢は正しいけれど、態度は自信に満ちている。 その自信が仕事の出来だけではない事を俺はよく知っていた。 希望していた部署ではない配属に不満を抱いていた葛城は、同期の間ではもちろん、完全に課の中で浮いていた。 部下のそういった部分もフォローするのが上司だと思い込み、少しだけ驕っていたのかもしれない。見事なまでに論破されたが、そこは年の功、という程に年齢差はないけれど、社会人として当たり障りのない言葉で応じる事は朝飯前だ。 しかし葛城からの返答は俺を戸惑わせた。 ゲイだと言い、キスをしてきたのだ。無駄に過保護に育てられた俺の抵抗なんてものはほぼ無意味だった。 確かに視力に関しては自分でもいつか失明してしまうのではないか、という不安は今でさえふと思う事がある。どれだけ医者から酷使しなければ日常生活に支障が出る事はない、と言われていても、たまに歪んで霞む視界にドキッとしてしまう。 ただ、葛城が何故そんな事を俺に言ってきたのかはわからないまま、日に日に葛城と過ごす時間が増えていった。視力に関しても目敏く指摘され、隠すつもりはなかったから正直に話した。 相変わらず資料室での密会じみたキスも続いていたのは、お互いがスリルを楽しみながら同時に気持ちが揺れ始めていたのではないかと思っていた部分があったのかもしれない。 自分がゲイだとは思わない。今はいなくても、彼女がいた時にはセックスもしたし、漠然とした性的欲求を持て余した時に浮かぶのも異性の体だ。 それなのに、葛城にキスをされると常識だとかがどこかへ行ってしまって、ただただキスの気持ち良さに浸りきってしまうようになっていた。 視力の事もさり気なく気遣ってくれる姿に、知っている感情が湧き上がってきた。 俺は葛城が好きだ、と。 気付いたら聞かずにはいられなかった。最初のキスが嫌がらせだった事にはすぐに気付いた。繰り返すのも、戸惑う俺が面白かったのだろう。そんな事が気軽に、しかも曲がりなりにも上司である俺にしてくるのだから、相当な場数を踏んでいる事は確かなはずだ。 つまりそれは、俺以外にも似たような関係の相手がいる可能性の方が高い。 せめてそれが不特定多数ではなくて、パートナーだったなら。 気に入らない上司をからかうために悪戯心が湧いてきてしまっただけだとしたら。 案の定、想定内の返答だったのに俺は落胆した。何故ならまたしても驕っていたんだ。一緒に過ごす時間が増えて、自分が葛城とのキスに意味を持ち始めた事で、葛城も同じように思っているかもしれないと知らぬ間に期待していた。 葛城の言う通りに俺は親の敷いたレールの上を歩いてきたに過ぎない、ただの世間知らずな坊ちゃんで、好意のない相手にキスをしようなどとは思わない。されたから、と自分に言い訳をして、如何ともしがたいこの部下を手懐ける手段としてキスくらいならなんて事はないと言い聞かせていた。 「想う相手と気持ちのない関係を続ける方がキツイのかもな」 もうやめよう。決して良い行為ではない。まして部下を手懐ける手段、とはなんと愚かで驕った考えを俺は持っていたのだろう。 今まで俺を慕ってくれた部下たちに対しても失礼極まりないではないか。どこが仕事のみならず、プライベートな部分まで気の利く頼りになる上司だ。 思わず口にしてしまった言葉は、葛城の心に何かを残してくれただろうか。資料室から自分のデスクに戻るまでの間にふと思って、すぐに打ち消した。これ以上、女々しい考えは持つべきではない。 少し遅れて戻ってきた葛城が、普段となんら変わらないのがすべての答えなのだ。何度も交わしたキスの後も、ずっとそうだった。 部下に玩具のように扱われて悦んで、想いまで寄せてしまった単純バカな自分にも、葛城にも腹が立った。情けなくて悔しくて。 目の前の仕事を片付ける事にだけ集中していたら、いつの間にか就業時間はとうに過ぎ、フロアには残業している数人しか残っていない。 今までの俺なら、区切りのいい所で終わらせて、揃って飯でも食いに行こうと誘ったと思う。さすがに出来そうになくて、先に上がる旨だけを伝えて部署を出る。 エレベーターが来るのを待ちながら、真っ直ぐ帰る気にはならないのに、一人で寄ろうと思える場所すらない事にも腹が立ってきた。 誰も乗っていないエレベーター。 一階のボタンを押して扉を閉める。 これで今日が終わり、また明日も同じ日々を送る。それだけ。 ただ、おかしなキスをする事だけがなくなるだけ。 視界が歪んでビクッとした。 「課長っ!」 閉まりかけた扉を無理やり両手で押さえて葛城が息を切らせている。 「……飯、食いに行きましょう」 突然の誘いに黙り込んでいると、葛城は普通にエレベーターに乗り込んできて、何が食べたいのかを尋ねてくる。 わからない。 葛城がわからない。 ろくな返事もせずに葛城の背を見ながら歩く。年下のくせに、背広の似合う体型。若者らしいスリムなシルエット。すべてが憎らしく見えてくる。 「……俺にはお前がわからない」 断ればいいだけなのに、黙ってついていく自分もわからない。 「わかんねーから話すんでしょ」 振り返った葛城が困惑した表情を浮かべていた。 「昼間は、言い過ぎたって思ってます。でも、こんな時間まで仕事してたら目、キツイでしょうが」 自然に、当たり前に向けられた手が顔に触れそうになった途端、無意識にビクッと体が震え、行き場をなくした手は葛城の髪をかきあげる。 「……うち、たぶんあんたの家より近いから、来て」 「…………」 「話、人様に聞かれても構わないならいいけど。俺はゲイだって事を恥じてないし」 その言葉にまた体が震えた。困惑していたはずの顔は真剣な眼差しに変わっていて、高鳴る鼓動に俺はやっぱり黙って葛城の後ろを歩く。 葛城の───好きな男の家に向かうために。

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