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prologue〈第一部〉

「なァ、どんな気分?」   暗澹(あんたん)たる闇が、虚ろな空を果てしなく覆っている。 今夜は月が見えない。 一縷(いちる)の希望すら断つかのように、暗鬱とした光景が何処までも広がっている。 「良くはねえな……」 仰向けの身体が、先程から悲鳴を上げている。 あれからどれくらいの時間が経っているのだろうか。 指を一本動かすことすら億劫で、遥か彼方を覆い尽くす黒雲をぼんやりと眺める。 殴られ過ぎて、何処が一番痛いかなんてもう分からない。 等しく傷付き、沢山の血が流れ、疼くような鈍痛が絶えず全身を蝕んでいる。 うっすらと唇を開けば掠れた声が零れ、口内が鉄臭い。 とんだ貧乏クジだな……、笑うしかねえよ。 「痛い?」 「そりゃな……。よくもまあ、こんだけ殴ってくれたもんだよなあ……。少しは加減しろよ」 「素直に引き下がれば見逃してあげたのに。初めにちゃんと、忠告したでしょ? つまらない意地を張るからこういう事になるんだよ……? 分かる? 俺の言ってること」 「ハハッ、ご高説どうも。でもな、尻尾巻いて逃げるより数段いいだろ。そう簡単に……、人間出来てねえんだよ。俺はな……」 「そっか、めんどくさいね」 血で滲む視界に、しゃがんで動向を窺う男が映り込む。 出会ってからまだ日は浅いが、聡明でたおやかな彼をとても気に入っていた。 仲間の窮地を救ってくれるような、勇敢な男だ。 理知的で優しく、いつも控えめに微笑む彼は同性と思えぬような色艶を孕み、端正な顔立ちをしている。 華やいでいて、それでいて気品があって、誰もが視線を奪われるであろう美々しくも清廉潔白な彼が、今では禍々しき悪魔に思える。 「聞いても、いいか……? なんで、こんなことを……? 初めからこうするつもりで近付いたのか? だとしたら、随分と大胆なんだな……」 「ふふ、まさか。テメエにそれだけの価値が? 見誤るなよ、劣等生が。何となくさァ、横取りしたくなったから。それだけだよ」 「そうか……」 「がっかりした? 大した理由もねえなんて悲しい? 俺さ、アンタがどんな顔するかなァッて……、ずっと考えてた。意外に取り乱さなかったね。お仲間がみ~んな寝返っちまったのに」 視線を巡らせれば、暗闇に紛れて大勢の気配が取り囲み、足下だけが微かに見える。 天を仰げばきっと、見慣れた顔ばかりが並んでいるに違いないが、自ら進んで確認しようという気持ちにはならなかった。 「この子達はさ、アンタがずっと生ぬるいことしてるから、もう我慢の限界なんだって。みんな鬱憤が溜まってるんだ。だから俺がさ、背中をとんと、押してやろうと思って」 す、と影が差す腕を伸ばし、背中を押す仕草をする。 「やめろ……。つまらねえこと、すんな……」 「ハハ、どっちが? こいつら元々、手ェ付けらんねえワルなんだろ? 首輪つけちゃうなんて可哀想。好きにさせてやってよ。今までアンタの言うこと聞いてやってたんでしょ? ならもういいじゃん」 このままでは埒が明かないと、地へと爪を立てて懸命に立ち上がろうとする。 ジャリ、と小石を巻き込みながら上体を起こすと、途端に激痛がせり上がってくる。 呼吸すら阻むような痛みに呻き声を漏らすも、夜陰(やいん)(まと)う彼は微動だにしていない。 それどころか、見世物でも楽しむように薄闇でせせら笑う気配を感じる。 「ほら、無理するから。何発入ったと思ってんの? 見てらんないなァ、立たせてあげて」 半開きの唇から唾液を滴らせ、苦しみをやり過ごそうと難儀していると、不意に両側から腕を引っ張られ、何者かによって力ずくで立たされる。 ささやかな星辰(せいしん)すらも窺えない夜だが、視線の先には防波堤があり、対岸からは目映い光と共に変わらぬ日常が存在する。 (そび)え立つ工場を煌々と照らす夜景を眺めていると、このような状況でも不思議と気分が落ち着いていく。 気に入りの場所で語らう一時は、何物にも代えがたい思い出で満たされている。 「何だっけ、ほらアイツ。よく話してくれたじゃん。ここでお喋りしてたんだっけ?」 「……ああ。お前ともよくしたよ。覚えてるだろ? 気に入った奴しか連れてこねえんだ」 「へぇ……、俺のこと気に入ってくれてたんだ。嬉しいな、ありがとう」 「どうやら……、俺の見込み違いだったようだけどな……」 「そんな事ねえよ。見れば分かるだろ? これからも俺、上手くやっていけそうだよ。アンタよりもね」 張り付けにされた囚人のように、彼の目前にて立たされながら、ただ審判を待つ。 裏切られたなんて、思いたくはなかった。 工業地帯の美しき情景に、さながら死に神のような悪しき影が佇んでいる。 とんでもないものを迎え入れてしまったと気が付いても、最早後の祭りでしかない。 染み付いた毒は、なかなか消えてはくれないものだから。 「だから、安心して休んでよ。今夜は疲れたろうからさ」 「まだ……、話は終わってねえぞ……」 「話? ねえよ、そんなの。何処ぞのチームの頭とへらへらつるんでるような奴、誰も信用出来ねえだろ?」 「そんな……、奴じゃねえ……。アイツは」 「いい奴なの? へ~、ますます会ってみたいな。アンタから散々聞かされて、興味持ってたんだよね」 「な……、やめろ……。アイツを巻き込むな……」 「頼んでもねえのにベラベラ喋っておいて今更巻き込むなってェ? そんなの無理でしょ。不用意に話さなければ良かったのに、お兄さん……?」 告げると同時に、みぞおちへと衝撃が迸り、不意打ちに頭が真っ白になる。 息も絶え絶えに顔を上げれば、全てを呑み込みそうな影が迫っており、拳であると悟った頃には視界を激しく揺さぶられていた。 「おやすみ、ゆっくり眠りなよ」 薄れていく意識に、雫のように言葉が波紋を響かせる。 しかしそれきり何も聞こえず、視界も徐々に塗り潰されていき、やがてぷつりと糸が途切れた。

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